この腕の中だけでも
私なら、きっと最初のときに正気を失っている。
誰かがそう呟いていた。


いつもなら先に食事にするのに。
仕事から帰ってきた夫が、きゃあきゃあ嫌がる息子を引き寄せ抱き上げ、ただいまと言うのもそこそこに風呂場へ駆け込んだのはイレーネをちょっと面食らわせた。玄関から居間、居間から脱衣所までの間に点々と服が散らばっている。はじめは靴、次はコート、背広にベストにネクタイに。転がったカフスを踏みつけてしまいそうになり、一体何事かと大きな声で呼びかけても、それ以上に騒がしい息子の笑い声と水音に遮られて彼には届いていなかった。いつもなら彼は、ステンレスは、こんなふうに脱ぎ散らかすことはしない。特にコートだけは何があってもきちんとハンガーに掛けるのに、何よりもくしゃくしゃになって放り出されていた。ひとつずつ拾い上げてまとめ、最後に靴を揃えてため息をつく。これは何かあったってもんじゃない。さて、どうしたものかしら。

「マーマー!」
「はいはーい」
「ちょっときてー」

服を片付け終わり、鍋の中のシチューをかき混ぜていたイレーネの耳に息子の甲高い声が届く。上がるにしてはまだ早い気もするけれど、とにかく、火を消し蓋を閉じ、彼女は洗いたてのタオルを持って脱衣所へ向かった。案の定風呂場のドアは開いていないし、ずぶ濡れの息子も駆け出してはこなかったのだけど。

「どうしたのー」
「なんかねー、パパがへんー」
「こらっ…」

止めたって息子は止まらないし、隠そうとしたってイレーネの目は誤魔化されない。それなのに彼は往生際悪く、しーっと人差し指を立てているらしい。よし、ママも入っちゃおうかな、と言うと、ダメだよ絶対ダメ、という返事。もちろん息子からではなく、夫からの悲鳴だった。それに構うイレーネではない。

「それで、何がそんなに変だったの?」
「何でもな…」
「パパ目が真っ赤なの」

素早く身体を洗い、髪をまとめて湯に浸かったイレーネがそう尋ねると、頬を桃色に染めた息子が自分を抱き締める父親を見上げ、ほらあ、と笑った。おもちゃの船を浮かべて遊ぶ息子は無邪気なもので、それに合わせて彼女もへえー、とにこやかに相槌を打つ。夫はずっと下を向いたままだった。濡れて垂れている前髪の所為で表情が分かりづらかったから、白い手を伸ばして彼女はステンレスの髪を掻き分けた。あら、ほんと。

「どうしちゃったのかしらねえ」
「ねー」
「うさぎさんになっちゃったかなあ」
「えー」
「うさぎさんになりました…」
「どこにこんな髭の生えた兎が居るのよ」

ず、と鼻をすする音がずいぶんと大きく響く。イレーネは掻き分けた前髪を元通り戻し、それだけでなくぱしゃりと顔に湯を掛けてやった。とばっちりを食らってもけらけらと笑って面白がる息子がやり返してくる。だから彼女は念入りに夫に向けて掛け続け、塩辛いやつをさっぱりと洗い流してやった。ひと息つくころには彼の頭からはポタポタと雫が垂れ、それを拭うために両腕を上げた途端に息子は母親の膝の上に移っていった。

「変なの直った?」
「うーん…」
「直ったって」
「よかったねー」

大きな両手で顔全体を覆い、下瞼を伸ばして特別変な顔をしてみせる。頬も髭も唇も、手が下がるにつれて引っ張られるのを見て息子は大笑いした。やっぱり変、という言葉に元通りになった顔を苦笑させ、ステンレスはもう一度鼻をすすった。そうして両腕を差し出し、今度はきちんと微笑んだ。

「君も」
「え、窮屈じゃない」
「いいから」

湯の中でふわりと軽い息子を持ち上げ、夫の膝の上に再び収まったのを見届けて上がろうとしたイレーネはきょとんと目を丸めた。小さな息子を抱えていても、彼の腕はまだ十分に余裕がある。だから、するりと身体を滑らせ、彼女もそこに収まった。

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