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▼ K&S

※少しだけ恥パ含む。

 ある昼下がりのこと。パンナコッタ・フーゴは苛立っていた。
 原因である一枚の報告書が、乱雑とした机の上に鎮座している。丁度今まとめ終わったものだった。内容は、昨晩フーゴが処分した一人の女について。
 右上がりがちな文字の羅列の中、しばしば目につく一つの単語に、苦みを帯びた気持ちがこみ上がってくる。それをどうにか振り切ろうと、フーゴは改めて女の経歴から目を走らせた。
 女は男に媚を売ることで生計を立てていた。
 つまるところ娼婦であるが、女はある時とある男と出会い、それをきっかけとして、はじめから幸福とは言い難い人生からさらに落ちていくこととなる。男は、組織が製造した麻薬のバイヤーだった。
 女は男に入れ込むとともに麻薬にもどっぷりと嵌り、薬代を稼ぐためにあらゆることに手を染め始めた。金を盗み、人身売買に協力し、腐敗した政治家に色目を使い……。悪事はエスカレートしていき、ある時組織が無視できない所にまで至ったため、削除対象となったのである。
 愚かだ、とフーゴは思った。
 女もそうだし、正直に言えば組織もそうだ。そもそもこの事件の構造自体が滑稽だった。始まりと終わりの立役者が同じなのだから。
 しかしフーゴはそんなことで苛立っているのではない。
 がり、と爪を噛む。
 また、麻薬だ。
 最近こうした事件が多い。それだけ組織の麻薬がこの街に浸透しているということなのだろう。
 フーゴ自身は、組織が麻薬を取り扱っていることについて特に感慨は無かったし、むしろあってもおかしくは無いことだと思っていた。
 組織は、ギャングだ。
 このイタリアの歴史においてどのようにしてギャングが生まれたかといえば、単純明快、人々の間で生まれる諍いの数々を、金銭報酬のもと、暴力という手段を用いて収めるために生まれたのである。ギャングとは暴力を行使する集団であり、そして世の中の大半の人は、暴力は悪だと認識している。つまりギャングとは実態がどうであれど結局は悪なのだ。そこに麻薬の売買が付加されようとされまいとその事実は変わらない。フーゴにとっても、それは大した問題ではない。
「……くそ」
 収まらない苛立たしさにフーゴは書類を机に放り、背もたれに体を預けた。目が疲労でしばしばする。腕で顔を覆いながら天井を仰げば、窓の外から通りの喧騒が流れ聞こえてきた。
「お疲れだな、フーゴ」
 突如聞こえてきた声に反射的に身を起こす。戸口に凭れ掛かるようにして、細身の男が立っていた。
「ブチャラティ、居たんですか」
「ノックはしたんだが、聞こえなかったか?」
 からかうように片目を瞑るブチャラティに、フーゴは急いで居住まいを正した。
「すみません。気が付かなくて」
「その様子だと疲れてるみたいだな。ちゃんと休憩はとっているのか?」
「とってませんが、これで最後です」
 手の中の書類を持ち上げて見せる。確認も済ませた今、後はブチャラティに渡して終わりだった。
 しかし、フーゴは再びその書類に目を落とした。
「?どうした」
「いえ……」
 言葉を濁すフーゴに、ブチャラティは怪訝そうな顔をした。
 フーゴの脳裏にはある光景が浮かんでいた。
 明かり一つ灯されていない部屋で一人佇むブチャラティ。無表情であったのに、もしかして泣いているのではないかと錯覚してしまったほどに、深く暗く沈んだ瞳。
 果たしてこの書類をこの人に渡していいのだろうか。フーゴは眉根を寄せた。
 もちろんこんな事件はすでに何度もあったわけだし、今回だって渡さないわけにはいかないのだが、しかしそれでもこの手の任務の時、フーゴはいつもブチャラティの表情を窺ってしまう。
 組織が麻薬を扱っていることを知った時、ブチャラティはそれを裏切りだと言った。
 一度はこの世の正義であるとさえ信じた存在が、ブチャラティにとって一番といっていいタブーに足を踏み入れていたのである。失望のほどは、あの暗い瞳が物語っていた。しかしそれでも彼は組織を離れることはしなかった。事実がどうであれ、彼とその父親が組織によって生かされていた事実は変わらなかったからである。
 近頃この街を取り巻く麻薬の影は消えるどころか濃くなっていくばかりだ。――ブチャラティは現在進行形で、組織に裏切られ続けている。
 くしゃりと、手の内で報告書が音を立てた。
(……あんな光景は、また見たいものじゃないな)
 ふと、香ばしい匂いがフーゴの鼻をくすぐった。
 コトリと、目の前に置かれたカップに顔を上げると、無表情だが僅かに心配そうな色を滲ませた黒の瞳が、フーゴを見つめていた。
「どうやら随分と無理をしているらしいな」
「、無理なんて」
「じゃあなんでそんな顔をしている」
「……」
 まさか『アナタのことを考えていたからです』となどと答える訳にはいかない。フーゴは向けられる視線から逃げるようにコーヒーに口をつけ、そして盛大に顔をしかめた。
「……甘い」
「疲れには甘いものだろう?」
「だからってこれは……」
 濃い目に淹れられたコーヒーの苦みと相まって喉を焼くような甘さは角砂糖一つ二つというレベルではない。その証拠に添えられたスプーンでカップの底を攫えば、溶けきれず残ったドロドロの砂糖が現れた。思わずふざけているのかと問い詰めたくなるような光景だが、どうも悪気は無いらしいブチャラティは本気か冗談か「もっと入れたほうがよかったかもな」なんて真顔で頷いている。どういうつもりなのかはわからないが、呆れてものも言えず、フーゴはため息をつきながら、黒い水面に目を落とした。
 味がどうであれブチャラティがせっかく自分の為に淹れてくれたのだから残すわけにはいかない。渋々飲み干すフーゴに、ブチャラティは満足げに目を細めた。
 ふと、フーゴの頬にブチャラティが手を伸ばした。
 触れる手のひらを怪訝に思ってフーゴが顔を上げる。軽く引き寄せられたかと思うと、突然フーゴの視界が陰った。
「……は?」
 瞼に柔らかな感触。離れていく薄い唇を茫然と見送りながら、フーゴは間抜けた声を上げた。
「……おまじないなんだが、知ってるか?」
「は、え?」
「『相手を笑顔にするおまじない』なんだ。昔、母親に教わった」
 言われたことを理解できず混乱するフーゴに対し、ブチャラティは冷静そのものである。
「俺もよくしてもらったんだ。効果の程は経験上、自信があったんだが……効き目はどうかな」
 ふむ、とフーゴの顔をまじまじとみるブチャラティに、それどころではないフーゴはえ、と意味のない声をあげながらも、漸く状況を理解したのか、次第に紅潮し始めた頬を隠すように瞼に手を当てた。
「は、恥ずかしく無いんですかこんなことして!」
「こんなことって……たかがおまじないだろう。そんな慌てなくても」
「だからって!こんな、」
「駄目だったか?」
 さも不思議そうに言われ、フーゴは思わず叫びだしたい衝動に駆られた。
(どうしてこの人は、変なところで抜けているんだ!)
 いかなる理由があれど、年若い男が同じく男であるフーゴにキスをすれば問題があって当然だろう。ここがフーゴの私室で、この上司の唐突な行動の目撃者がいなかったのは幸いだったが、例えばもしここにミスタが居たとして、今の光景を目撃されてしまったなら、あのお調子者の男は血相を変えて叫びだすに違いない。(そのくらいまずいことなんだよ!分かれよ!)
 だがしかし、チーム一の頭脳派であるフーゴは脳内を轟々と巡る思考の嵐を、ある結論で早々に落ちつけることに成功した。
(ブチャラティはなんとも思っていないんだ。……僕だけが焦っているのも馬鹿みたいじゃないか)
「疲れには甘味をと思ったんだが、どうも深刻なようだしおまじないを……何を溜息をついているんだフーゴ?」
「気にしないで下さい……」
 普段は頼りになるこの男が時々物凄い天然っぷりを発揮することくらい承知済みだったはずだ。そうだろう、パンナコッタ・フーゴ。そんなことを自分に言い聞かせながら、フーゴは本日何回目ともしれないため息をついた。
「やっと笑った」
「え……」
 言われて、自分の頬が僅かに緩んでいたことにフーゴは気が付いた。
「効いたな。おまじない」
 それは正確には苦笑であり、笑顔というには少し違うものではあったが、しかし目の前の男は満足げに目を細めている。
 半ば呆れつつも、思わずその表情につられて、フーゴは今度こそ笑った。
「……やることが幼稚なんですよ、ブチャラティ」
「そうかもしれないが、効果はあっただろう」
「それでもやっぱりキスは無いですよ。……まさか、誰にでもやってるんじゃないでしょうね」
「流石にそんなことはないが……ああでも、ナランチャにならしたことはあるぞ。凄くびっくりしてたな」
「そりゃそうでしょう……」
 自分より一つ年上の少年が驚きのあまり口をあんぐりとさせている姿が目に浮かぶ様だ。呆れながら、フーゴはため息をついた。
二人はそのまましばらくの間、穏やかに笑いながら会話を交わした。そのうちにフーゴは、いつの間にか胸の内を支配していた重い気分が消え去っているのを感じた。
 開いた窓から温かな風が流れてきて、机の上に置いた書類が揺れている。
 今ならばごく自然に、この書類をブチャラティに渡せる様な気がした。たとえ目の前のこの男が顔を曇らせてしまったとしても、それならば今度はこっちから、幼稚なおまじないをお見舞いしてやればいい。ブチャラティが驚く顔を想像して、フーゴは可笑しげに笑った。


20120912up

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