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▼ healing


 気怠い体を引きずりながらアジトの扉を開けたとき、慣れない香りが鼻をついた。
 微かに混じるタールの匂いから煙草だろうとわかるが、それにしてはやけに甘い。脳に染み入ってくるような癖のあるその甘さはどこか知っている気がする。一体何処から流れてくるのだろうかと視線を巡らせるまでもなく、暗い廊下の先、僅かに開いたリビングの扉から明かりが漏れている。どうやら匂いの元はそこのようだ。誰か居るのかもしれない。なんのフレーバーの煙草を吸っているのだろうかと考えながら、俺は静かにリビングの扉を開けた。
 蝶番の悲鳴と共に甘い香りが一層強まる。
 リビングの中央、シンプルなガラステーブルの上で、何処からか持ってきたのだろう、普段は置かれていない読書灯が煌々と暗いリビングを照らしていた。温かみのある黄色の明かりを透かして、白い煙がくゆる。それを辿るように視線を動かせば、ソファの上でプロシュートが眠っていた。口にくわえた黒い巻紙の煙草の先が、蛍のように灯っている。
 何故こんなところで眠っているのだろう。そう考えて、もしかして俺の帰りを待っていてくれたのだろうかという淡い期待が脳裏をかすめた。俺がアジトに帰ってきたのは実に一月ぶりだった。
 起こさないよう、音を立てずに近づいて、その頬を撫でる。黙っていればまるで作り物のように整った顔だが、触れた頬は子供のように温かく、触り心地がいい。俺はプロシュートの顔に手のひらを宛がったまま、しばらくその寝顔を眺めていた。
 静けさの中、壁時計の音が小気味よく時を刻むのに合わせて、小さな寝息が細く伸びる煙を揺らす。その穏やかさに胸の奥を擽られるようで、思わず目を細めた時、プロシュートが僅かに身動ぎをして、唇から煙草が外れた。
 こうなること位想像出来ただろうに、俺は何をぼんやりと眺めていたのだろうか。心の中で舌打ちをして、反射的に落ちて行く煙草を握りつぶす。ジュ、という音と共に、痛み。手を広げてみれば案の定、黒く焼け焦げた皮膚が燻っていた。
「……やっと帰ってきたかよ」
 目覚めたプロシュートが身を起こした。暗くてよくわからなかったが髪を降ろしている。落ちてきた長い前髪を掻き揚げるプロシュートは心底眠たげで、自分が寝ながら咥えていた煙草のことにまで頭がまわっていないようだった。
「……寝煙草は危ないぞ、プロシュート。火事になったら困る」
「それは悪かったが、テメエがさっさと帰ってこねえからじゃねえか」
 不機嫌そうにそういって、腹のあたりを軽く殴られる。
「……何日会ってねえと思ってんだよ。やっと会えるんだから早く帰ってこいよ。馬鹿かよ」
 気だるげに俯くプロシュートは、寝ぼけているのか声もぼそぼそと聞き取りにくい。取りあえずソファの空いたスペースに腰掛けると、再びプロシュートが倒れてきて、太腿の上に頭がぼすんと乗せられた。俺は特にそれを気にすることもなく、背もたれに体を預ける。一息ついた所で吸殻のことを思い出し、手を伸ばしてテーブルの上の灰皿に落とした。
 それを見てプロシュートは漸く自分が吸っていた煙草の行方に気が付いたらしい。俺の手をガシリと掴むと、手のひらに出来た黒い焦げ跡を見て眉を顰めた。
「……馬鹿かよ」
 呟いて、気に食わないとでも言いたげに、俺の手を放る。
「……自分のことになると雑すぎるんだよ、お前は」
 言いながら、プロシュートがもぞもぞと俺のほうに体の向きを変える。その姿がまるで飼い主に甘える猫の様で、俺は思わず柔らかい金髪に手を差し入れていた。
「それはお前にも言えると思うが」
「一緒にすんなよ。俺は十分自分を可愛がってるぜ」
「この間ペッシを庇って大怪我をした」
「大したことなかっただろうが」
「丸一日目覚めなかった奴の言うセリフじゃないぞ」
 拳銃を三発、腹のど真ん中に喰らったのだ。然るべき場所に駆け込んで処置を済ませ、どうにか命を取り留めたプロシュートを背負いアジトに帰ってきたペッシには傷一つ無かったものの、失血の為に気を失ったままの兄貴分が心配でならなかったのだろう、未熟者のマンモーニは、いっそ哀れな程に情けない顔をしていた。
 少しは悪いと思っているらしく、プロシュートはうるせえ、と小さく唸った。
「傷口を鉄で縫うヤツが、うるせえんだよ。馬鹿が。死ね」
「……眠いか?」
 やけに口が悪い気がする、なんて思っていると、見てわかるだろと言わんばかりに半眼になったプロシュートにジットリと睨まれた。
「ああ眠いぜ。猛烈に眠い。俺は今日日が昇る前からずっと任務だった。帰ってきたのは一時間前。普通ならとっくにベッドでおネンネしてるところだ」
「……すまない」
「……全くだ」
 もういい、寝る、とあっさりと身を起こして立ち上がったプロシュートが、テーブルに置かれた黒いボックスに手を伸ばす。三叉を持った悪魔のイラストが描かれた、見慣れないデザインの煙草だった。
「何時ものやつとは違うんだな。その煙草」
「あーこれか……偶に吸いたくなって買うんだ。がっつり甘い匂いがするだろ。これが結構癖になる」
 パッケージのデザインを見ても、その煙草はどちらかといえば女性向けのような印象を受けた。少なくとも、プロシュートが普段吸っているようなものとは大分かけ離れている。そのせいか少し言いにくそうにするプロシュートに、俺は素直に「意外だな」と思ったことを述べた。
「うるせえよ」
 乱暴に言って、プロシュートはさっさと背を向けて立ち去ろうとした。
 なんというか、プロシュートの機嫌はいわば大暴落のすえに地を這っているような状態らしい。単純に眠気のせいだけでは無いらしいのはわかるが、わかるだけでどうしていいのかはわからない。だが、このまま放っておきたくは無い気がした。久々に会えたプロシュートに、もう少し触れていたいと思う自分が居るのだ。
 去ろうとするプロシュートの腕を掴み、引き寄せる。
 多少強引に触れた唇からはあの癖のある甘い香りがして、俺は漸く合点が言った。
「ああ、ココナッツミルクだ。やっとわかった」
「……んだよそれ」
 呆れたような顔で呟くプロシュートを抱き寄せ、額を合わせる。
「玄関の扉を開けた時に、この匂いがしたんだ。癖があるし、好き嫌いが分かれそうだが……俺は、悪くないと思う。少なくとも、もう一度味わいたいと思う位には」
 大人しく聞いていたプロシュートだったが、俺の言いたいことを理解してくれたようだ。気の抜けたような顔をして、小さく笑う。
 ゆっくりと唇が触れた。互いに啄むようなそれは何故だか俺まで眠りに誘われるようだった。心地よさに、疲れが段々と癒えていく。


20120919up

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