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 AM9:00。今日もシチリアの空は青い。
 開け放した窓から外気が流れ込み、一晩のうちに篭った空気が一掃される。
 開店前の空っぽの店内は隅々まで掃除が行き届いており清潔なはずだが、置かれている物はどれも使い古され、どこか埃臭く安っぽい印象が拭えない。その中でも、六つあるテーブルの一つ一つに被さった鮮やかな青のテーブルクロスが、やけに新しく、周囲の様子に浮いて見えた。
 窓の外には、店の裏にある庭が広がっている。日当たりは良好で、手を掛ける人間の熱意さえあれば一通りの園芸を楽しめる程度の広さがあった。とはいえつい最近まではまったく使われていなかったのだが。現在では小さな畑と、隅にバラの木が一本植えてある。亡くなった親戚からこの食堂を受け継いで、現在まで。淡々と続いた平凡で停滞した日々に、畳み掛けるように訪れた幾つかある大きな変化の一つだった。
 緩やかに波を作る畝の頂点に、鍬が振り下ろされる。
 額に浮いた汗をぬぐいながら、庭の中心でプロシュートはこちらを振り返った。
「なぁに見てんだよ」
 なによりも大きな変化はこの男だろう。
 青の双眸がこちらを向いた瞬間。心の中で呟いた自分の言葉に何故だかギクリとして、俺は思わず背を向けていた。
「無視すんなよオラ」
 駆けるような足音の後、背後からぐっと襟を掴まれ、無理やり顔を向けさせられる。その時俺が一体どんな顔をしていたのかわからないが、プロシュートは鼻で笑った。
「おはよう」
「……おはよう」
「顔、枕のあとついてるぜ」
 間抜け面、と笑われ、吸おうと思って手にしていた煙草を奪われる。続いて図々しくも火の催促が来た。仕方なくジッポを投げ渡すと、窓枠に背を預けたプロシュートは憎たらしい笑みを浮かべて煙草を咥える。ほどなくして、嗅ぎなれた香りが朝の空気を汚した。

 プロシュートは、かつて名のあるリストランテで働いていた一流の料理人であり、現在は俺の店で唯一の調理担当である。
 馴染み客と安いメシしかないような俺の店に何故プロシュートの様な男が働いているのかというと、その原因はプロシュートの(恐らく)唯一にして最大の欠点が関係している。
 俺の店で働かないかと声を掛けた時のことだ。プロシュートは一も二もなくあっさりと俺の誘いを承諾した後、指を突き付けて言い放った。
「『愛とセックスと魂、それと、伝統は売っちゃいけねえ』俺を雇うっていうんなら、心に刻んでもらわねえとな」
 曰く、この言葉はプロシュートの信条だという。そして、前の勤め先を辞める際に、最後まで反りが合わなかったというオーナーの顔を、必殺の角度で抉るように殴り抜いた上に吐き捨てた言葉でもあった。
 プロシュートは、とにかく頑固な男だった。
 この男の辞書には妥協の二文字は無い。己が築きあげてきた料理の腕と精神論が何よりも強力な法律で、それにそぐわぬものは誰であろうとねじ伏せるという反骨精神が脊髄にまで達していた。
 そんな男がある時、客から自慢の料理にケチをつけられた。メニューははっきりと覚えている。ガスパチョというスペインの料理だ。簡単に言えば冷製スープなのだが、無知な客はそれを温めるようにプロシュートに命じた。
 プロシュートは、古くは十七世紀までさかのぼるというその料理の伝統を重んじるあまり、そしてその歴史を背負い振るった自身の腕を誇るあまり、客の眼前に、己の魂ともいえる包丁を突き立てた。
 信じられないような話だが、事実なのだから認めざるをえない。ディナーテーブルの中央に切っ先が沈んだ包丁。店内の空気が凍ったのは言うまでもないだろう。記念すべき、プロシュートとの衝撃的なファーストコンタクトだった。(といってもこの時のプロシュートには、いち観客であった俺のことなど眼中になかったようだが)
 あの時の姿は、今後一生忘れることが出来ないような強烈な印象と衝撃を俺に与えてくれた。
 そして俺は衝動のまま、店を追い出されたプロシュートの背中を追いかけた。目の前にある極上の料理と、一緒に来て居た恋人を一人、店内に残して。
 ちなみに現在、かの恋人にはすでに縁を切られている。それはそうだ。星がいくつか並ぶような上等なレストランに、勘定もそのまま取り残されれば怒りもするだろう。
 それからしばらくしてプロシュートにも聞かれたことだが、あの時の俺は何故、プロシュートを追いかけたのだろうか。正直な所、自分でもよくわからなかった。ただ、目の前で首を切られた一流の料理人を、これ幸いと自分の所に招こうとしたのでは無いことだけは断言できる。それまで店の料理は可もなく不可もない俺一人の腕で十分賄えていたし、より良い料理、より良い味を客に提供しようなどという向上心は今でも皆無だ。本当に、衝動だったのだ(そう言うとプロシュートは「なんだよそりゃ」と呆れていた)
 今になって思う。俺はあの時、逃げ出したかったのだと。
 裕福ではなかったが店も生活も何事も無く続けられていけたし、なにより恋人とも『順調』だった。時々会話に混じる「結婚」の二文字にも、違和感を覚えなかった程に。
 恋人だった彼女に対して、特別の不満は無かった。しかし、一緒に居て満たされるものも無かった。
 積極的で、気が強く、誰よりも美しかった彼女に、ただ流されるようにして歩んでいた人生に、退屈と絶望を見出してしまった自分に気が付き、そんな自分を心の隅で嫌悪していた。
 そして俺は、逃げ出したのだ。大事に出来なかった彼女から。
 結局、逃亡の結果として一人のシェフを手に入れた代わりに、齢二十八にして独り身となってしまったわけだが、不思議と後悔は無かった。彼女に対する罪悪感はしばらくの間燻ったが、何か憑き物が落ちたような心地があったのも事実だった。
 そうして始まった、新しい生活。新しい人生。
 その傍らに立つ人物。プロシュート。この男には、人を、そして俺を、強く惹きつける何かがあった。




 『愛と〜』のセリフは元ネタから引用。しかしまあ全体的に元ネタから離れてしまったので、パロとはいいづらくなってきた……笑
 続きます。


20140330up

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