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▼ 爪先

 空気が妙に湿気ている。
 外はとうに日が沈み、深夜。任務を終えて自室に踏み入れた時に感じた違和感。身に染みた反射で五感を研ぎ澄ませば、僅かに聞こえてくる水音がある。奥にある扉からは僅かに光が漏れていた。
 足を忍ばせ近づけば、誰も居ないはずのシャワールームからは明らかな人の気配がした。音もなく脱衣所の扉を開け、曇りガラスの向こうに足を踏み入れる。
 そして閉じられたシャワーカーテンを勢いよく開けると、飛び込んできた光景に思わずため息が出た。
「……ここで何をしている」
 カーテンの向こうには見慣れた柄スーツ姿の男が一人、着衣のままでバスタブに溜まる湯に体を委ねていた。
 昼間はきっちりと整えられていたであろう髪にシャワーから出る湯が絶え間無く掛かり、崩れた前髪が肌の上を這っている。止め処なく流れ落ちる滴を気にすることなく男の唇が動く。『遅えじゃねえの』
 声は水音に遮られて聞こえない。言いたいことは山ほどあったが、まずはその喧しい音を止める為にコックに手を伸ばす。小気味いい音と共にシャワールームに静寂が訪れた。
 ゆっくりと顔を上げたプロシュートは、その唇をニヤリと歪めた。
「見てわかんだろリゾット。シャワー中だぜ」
「何故俺の部屋に居る。今日は非番だろう?帰らないんじゃなかったのか」
「非番だったぜ。た〜〜っぷりお楽しみしてきた所だ」
 相変わらずの開かれた胸元をさらに広げる。シャツの下に隠れた脇腹にある鬱血痕。散らばった花弁のようなそれに思わず押し黙る。プロシュートはそんな俺の反応にらしくなくけたけたと笑った。
「酔ってるのか」
「そこそこな」
「……上がれ。立てないのなら手を貸そう」
 妙に陽気なプロシュートは顔の前に出された手のひらをまじまじと眺めた後、力無くそれに自分の手を重ねた。
 引き上げようと力を込める。するとどういうことか、より大きな力に引き寄せられた。
「!?」
 不意に膝の力が抜けてバランスを崩し、そのままバスタブの中に引きずり込まれた。不覚としか言いようがないが、相手が相手なのだ。油断も有りうる。我ながら呑気に実力評価なんぞを下しながら、思ったよりも熱い湯から体を起こす。見慣れたはずの整った顔が間近に迫り、思わず動きを止めてしまった。
「おいおい、暗殺チームのリーダーが随分と間抜けじゃねえの」
「……スタンドを使った癖によく言う」
「バレたか」
 老いたのはほんの一瞬だったが、転ばせるには一瞬でも全身の力を奪ってしまえばそれで充分である。たかが悪戯の為に能力まで使ってしまうのだ。この男は今相当思考回路がいかれてる。
 呆れてものも言えず、俺はプロシュートと向き合うようにバスタブに背を預けた。中は狭く、必然的にお互いの足が軽く絡む形になる。男二人同じ風呂なんて奇妙なことこの上無いが、そもそも深夜の自室に自分以外の誰かが居る事自体がイレギュラーなことなのだ。気にするのも馬鹿馬鹿しく、息を吐いた。酷使した体の疲労をこの上なくしっかりと自覚した。
 大人しく湯船につかる俺に何か思うことがあったのか、プロシュートは普段よりも僅かに鈍った瞳でこちらをじっと見つめてくる。わざわざ真正面から視線を受け止める必要もないから(何となく気まずいというのもあったが)気怠く天井を仰ぐ。頭巾は脱いでその辺に置いた。
 何故この男は此処に居るのだろう。当然の疑問が疲労と眠気でどうでも良くなってくる。
 こうしてこの男がよくわからないちょっかいを出してくることは稀にだがあることだった。そしてその稀のケースの大概で、プロシュートはひどく酔っていた。周囲から(というかペッシから)兄貴と慕われている分、自己管理の徹底した男であるはずだが、何故か俺の前では時々ブレた。俺はその意味を深く考えない。考えたくないというのが正しいのかもしれない。不思議や謎は解き明かしたくなるのが人情だがそれは時と場合による。かのパンドラだって箱の中身が何かを知っていたならばわざわざ開けたりなんてしなかっただろう。
 顔を起こせば、どこかぼんやりとした表情のプロシュートが居る。湯気で全体的に白っぽくなった視界に、やけに映える赤黒い腹部の痕。『お楽しみ』の残骸。
 しこたま飲んで、好きなだけ遊んで、女と寝る。貴重な休みと金をそうやって浪費することは男ならば極普通のことに違いない。この男の場合はそのゴールが偶々俺の部屋だったという、それだけのことなのだろう。この男がここに居る事に、きっと特別な意味は無い。『なんとなく』だ。
 余計な思考を振り払うように、俺は口を開いた。
「女と遊んだ割に帰りが早いじゃないか。振られたか」
「あ〜……萎えたから逃げてきた」
「逃げた?最低だな」
「そうしてもいいような奴だったんだよ」
 そう吐き捨てて、クソッ、と苛立たしげにバスタブの縁に凭れ掛かる。どうやら余りいい女ではなかったらしい。
「何かされたのか」
「されたとかじゃねえ」
「腹のそれは。自慢げに見せびらかしていたが」
「これは別のやつ。そいつならまだ良かったんだけどなァ」
「寝た女は醜女だったと」
「……いいや。外見はまあ、合格ラインだったんだが……」
 何かを思い出したのだろう、顔に手を当て苦々しげに呻く。言葉を濁すプロシュートというのも珍しい。余程手酷い失敗をしてしまったんだろうかと考えていると、プロシュートは観念したように口を開いた。
「……男だった」
 ぴちょんと、シャワーヘッドから水滴が落ちた。
「……それは」
「いい。何も言うな。フォローもするな」
 思い出したくもないらしい。頭を抱えるプロシュートに笑い出しそうになる表情筋をどうにか抑えて苦笑に留める。頬がひきつるのはどうしようもない。笑いを堪えていることがばれたのか睨まれるが、その威力は普段に比べ半減している。耐え切れず口元を手で覆えば盛大な舌打ちが聞こえた。
「ックク、災難だったな……っ」
「全くだクソッたれ。あ〜もう、笑いたきゃ笑えよ、クソッ」
 お許しが出たので遠慮なく笑わせてもらう。そんな俺を苦虫を噛み潰したような顔で睨みつけていたプロシュートは、中々収まらない笑いに痺れを切らしたのか行き成り俺の腹を蹴った。本気では無いとはいえ痛いものは痛い。思わずぐっと息を詰まらせる。ハンッ、と鼻で笑われた。
 やめろと言っても聞きはしないのはやはり酔っ払いで、しばらくぐにぐにと腹を踏まれ続けた。時折くすぐるように脇腹に滑る。呆れ果ててされるがままになっていると、ふと足先が体を撫でるように上ってきた。胸から、首筋へ。そしてそのまま目の前まで爪先が持ち上がったかと思うと、突然頬をぐっと押された。
「っおい」
「はは、変な顔だな、えぇ?」
 ぐにぐにと顔を執拗に押され、思わずその爪先を掴む。掌の中に納まったそれは、何故か濃い紫色の光沢に覆われていた。
 俺の視線に気が付いたのか、形のいい五本の指はなにか別の生き物のようにぐにゃぐにゃと開閉した。
「遊び半分でそのオカマ野郎に借りたんだよ。ペディキュア。似合うか?」
 足を組み頬杖をついての実に堂々たる態度で問うプロシュートに思わず言葉が詰まる。
 正直に言えば、その濃い紫は形のいいプロシュートの足先で驚くほど映えていた。しかし、似合うという言葉は果たして今の状態のプロシュートには褒め言葉になるのだろうか。ペディキュアとは本来は女性のものであることと、普段のこの男が”兄貴”であることの違和感がひっかかって、口にするのは躊躇われた。
 俺の思考を余所にそういえば靴下忘れてきちまったなぁ、と笑うプロシュートは実に呑気なものだったが、ふとこちらに向けられたままの双眸が細められる。その仕草が妙に色気を帯びていてゾクリとした。……なんだか嫌な予感がする。
「なぁ」
「……なんだ」
 静まったバスルームはやけに声が響いて、思わず声を潜める。二人きりであるという事実に妙に気分を掻きたてられる。それは焦りだった。逃げ出したいようにも、その逆のようにも感じる狭間の焦りだった。
「俺はよ、そんな訳でメインディッシュにありつけなかったわけだ」
「……残念だったな。大人しく部屋に帰って寝るのがいい」
「冷てぇじゃねえの」
 咎めるように紫の爪が、首筋の、一番薄い皮膚を掻く。
「要はな、足りねえわけだよ。俺は今、絶賛欲求不満なんだ」
 玉のようになった水滴が白い足首を伝って落ちて行く様から目を離せない。掴んでいたはずの手は、ただその動きに導かれるばかりになってしまっていた。
「男は萎えるんじゃなかったか」
「だからこうしてここに来たんだろ。あんたなら、別にいい」
 強烈な殺し文句を吐いて形のいい唇が弧を描く。そんな仕草がその辺の女よりも余程似合ってしまうのだからやっかいな男だ。苦し紛れの問いもも急に濃くなった空気にあっさりと飲み込まれてしまった。どうやら誤魔化しは効かないらしい。
 開けようとしなかった箱を目の前の男にこじ開けられる、そんな恐怖にも近い感覚に間違いなく高揚している自分を自覚して、閉口した。
 好奇心という罪を犯したパンドラ。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
「楽しもうぜ」
 不敵なその顔はあくまでもこの男のいつもの顔だった。なのにどうしてこうも鮮烈なのだろう。すっかりぬるくなった湯に茹った脳は上手く働かない。
「……どうなっても文句は聞かないからな」
 プロシュートが嬉しげに笑った。その笑みを見て、ああ嵌められた、と思わずため息をつきたくなる。正体不明のどうしようもない敗北感を持て余しながら、俺はそっとその爪先に口づけた。


20120910up

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