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▼ 翼のあと

 いつの間にか微睡んでいた。
 乾いた、少し体温の低い指が背中に触れて、瞼を持ち上げる。
 肩甲骨の凹凸に宛がわれた、リゾットのかさついた親指に、それ以上の他意は無いことを俺は知っている。愛でるでもなく、傷つけるでもなく、置かれるだけの手のひら。
 一晩の間に何十回と繰り返されたその感覚を、俺はすっかり覚えてしまっていた。
「……さみいな」
 朝方の冷えた空気に、何も身に纏っていない上半身が思い出したように震える。
「起きたか」
「起きたよ。……まだやってたんだな、テメーは」
 俺が眠っていた間もこの行為が続いていたのだとすると、背後の男は一睡もしていないことになる。その証拠という訳では無いが、浅い眠りを繰り返していた俺の耳には確かに、この男が淡々とキャンバスに木炭を滑らせる音がこびりついていた。
「大分進んだのか」
「ああ」
 カッ、カッ、と小気味よい音が部屋に響く。動かし続けていた指を休める為か、木製の画架を木炭で打つのはこいつの癖だった。
 離れた手のひらの感触を合図に、俺は漸く自由になった体を寝台の上に倒した。
「何か飲むモンくれよ」
「水しかないが、いいか」
「何でもいい」
 軽く伸びをしてから冷蔵庫へと向かうリゾットを見送り、残された画架の足を掴んで引き寄せる。
 真っ白なキャンバスに描かれた裸の背中。その右側の肩甲骨を覆うように重ねられた、大きく骨ばった手のひら。
 肩甲骨は翼のなごり、か。
 小説のタイトルから着想を得たのだという。まんまじゃねーかよ、と小さく笑う。
 本屋でその言葉を見かけた時、俺のことを思い出したのだとも、リゾットは言っていた。俺の背中は綺麗なのだと、リゾットは時々口にしていた。
 木炭の線だけで描かれた、翼に見立てた手のひらの上に、自分の手のひらを重ねる。
 絵とは言え自分の背中に触れるのは奇妙な感じがした。重ねたリゾットの手のひらは俺のよりも少し大きかった。
「どう思う」
 水の入ったグラスを手に戻ってきたリゾットがベッドの傍に置かれた安物のスツールに腰掛ける。シンプルな白のブイネックの裾が少しだけ黒ずんでいるのが見えて、後で洗濯しないといけねえな、とボンヤリ考えた。
「こういうのはわかんねえって、いつも言ってるだろうが」
「お前がそう思っているだけだ。良い目をしていると俺は思うが」
「売れない画家がよく言うぜ」
 痛いところをついてやると、少し顔を顰められた。
 実際画家としてのリゾットは無名で、知り合いが経営している広告会社の手伝いでどうにか食っている状態だった。
 才能が無いわけではないと思うのだが。
 一方大して大きくもない文系の大学でしがない学生をしている俺は、芸術とは縁遠い生活を送ってきたし、なにより興味も無かった。リゾットとの出会いがなければ、おそらく死ぬまで関わることはなかっただろう。
 そんな俺だが、一応綺麗なものとそうでないものの違い位は分かっているつもりでいる。
 こいつの絵は、几帳面で綺麗だ。
「……手厳しいな。まあ別に、評論が欲しいわけじゃないんだ。簡単な感想でいい」
 体を起こし、うけとったグラスを傾けながら改めて絵を眺める。
 少し強めの黒いシンプルなラインで描かれた俺の背中。添えられたリゾットの手の陰影。
 頭の隅で、幾度となく繰り返されたあの感覚がリプレイされた。
 正直な感想を言えば、キャンバスの中のそれはあの時の俺の背中そのものだと思った。長時間空気にさらし続けて少し肌寒かった体。邪魔になるからといつものチョーカーを外されて、違和感の残った首元。
 そして、露出した肌に、何の含みも持たさず、躊躇いもせず、無遠慮に触れてくる、リゾットの手のひら。
 描くのに使われたのは所詮ただの炭なのに、リゾットが使えば何も無かったキャンバスの上にそんなものまで乗せてくる。
 目にしただけでまざまざと思い出されてしまう。そんな絵に、モデルとなった俺がまともな感想なんて言えるわけが無かった。
「……まあいいんじゃねえのか」
 背中がむず痒いのを誤魔化すようにグラスをあおる。気怠い体によく冷えたミネラルウォーターが流れ込むのが心地よかった。
 いい加減な感想だったがそれなりに満足したらしい。リゾットは足元に無造作に置かれた何冊かの小さなスケッチブックの一つを手に取ると、膝に乗せてまた何やら描き始めた。寝不足の癖に元気なことだ。一方の俺は疲れに負け、完全にベッドに臥せっていた。
 いつの間にか持ち替えられていた鉛筆ががりがりと描いているのは、勿論俺だ。呆れて口を開く。
「まだやるのか」
「ああ」
「おんなじ題材ばかりでよく飽きねえよなぁ」
「好きなものを好きなだけ、思いつくままに描くのが画家の幸せなんだ。例えそれが、売れなくてもな」
「……根にもってやがる」
 この男は結構負けず嫌いだ。プライドが高いとも言えるかもしれない。泥水を啜ろうが自分の生き方を変えない姿勢は、確かにプライドのなせる技だ。
 好きなようにさせて眠ってしまおうかとも思ったが、少し気が変わり、俺は横になったまま肘をついてリゾットを見つめた。
 俺の視線に気が付き、リゾットの手が止まる。
「……なんだ」
「いや、そんなに俺に夢中なんだな。テメーはよ?」
 少し沈黙があって、悪いか、と返ってくる。
 吹き出した俺に僅かに目を細めながら、リゾットは新たにスケッチブックのページをめくった。


20130504up

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