▼ 無題
信号は赤だ。
俺の姿に気が付いたらしい。道路の向こう側に立つ男はバツが悪そうな顔をして、独特の髪型をした頭をぽりぽりと掻いている。
そんなところで何をしているんだ。俺は口にしないまま問うように男を見つめる。何となく伝わったらしく、男はとうとう慌てだした。キョロキョロとあたりを見渡して、フォローを入れてくれる誰かを探している。その姿が滑稽で、思わず頬が緩んだ。気付いた男は照れたように笑った。
信号が青に変わる。
あちら側とこちら側から、ゆっくりと人波が動き出す。
ふと、男は後ろを振り返った。誰かに呼び止められたようだ。人垣の合間から男を呼ぶように、見覚えのある手のひらが天に向かって伸ばされている。
男は慌てて俺に背を向けると、手の方に向かって走り出した。掻き分けて行く人の波に男の大柄な背中が消えていく。
何処へ行くんだ。
思わず追いかけようと走り出した俺を遮るように、男の厚みのある手のひらが、人ごみの中から突き出された。
「こっちに来ちゃ行けないんです」
すみません、と申し訳なさそうな声だけが聞こえる。これまで感じたことの無い男の確固とした意思を感じて、俺は足を止めた。
もう男の姿も、男を呼んでいた人物の姿も無い。
道路の真ん中で立ち尽くす俺の傍を、絶え間なく人は流れて行く。
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