▼ 無題
泣いている。誰かが泣いている。
子供の様に頼りないその啜り泣きは、アジトの片隅、何もない白の壁に掛けられた鏡の向こうから聞こえてくる。
覗き込めば、見慣れた黒髪が見える。一人の男が隠れ鬼をするように、鏡の世界で蹲っていた。
――。
名前を呼ぶと、ピクリと男の薄い肩が跳ねた。
見つけてほしくないのだと言いたげに、男は膝を抱えて縮こまる。その髪を撫でてやろうと伸ばした指は、冷えたガラス質に強く拒まれた。
途方に暮れた俺は壁に凭れて座り込んだ。泣き声は一向に止みそうにない。
俺は言った。
なあ、何も泣くことは無いだろう。誰もお前を馬鹿にすることは無いし、責めることもしないのだから。
嗚咽が止まる。壁の向こうで、男は言った。
「知ってるよ、それくらい」
だから辛いんだろ。
再び嗚咽をし始める。男は泣き止まない。俺はまた途方に暮れた。
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