▼ Ristorante Piacevole
※リゾットの恋人っぽいモブ子さんが登場します。
「こちら、前菜となります」
品良く髪を頭に撫でつけたウェイターが、慣れた手付きで皿を置く。
視界に滑り込むように現れたその料理は、見た目も華やかなサーモンマリネだった。オリーブオイルの緑がかったソースに覆われ、赤と黄のパプリカが、桃色のサーモンと踊るように絡まり合っている。
久々だった。上等なレストランの、上等な料理。
ビニールの包装に覆われた冷凍のフィッシュフライとは違う、新鮮な魚介。萎びていなければ痛んでもいない、葉の先までみずみずしく、まるで息づいているかの如く色鮮やかな野菜。
思わず目を奪われてしまう素晴らしさだと思う。
だがしかし、向かいの席に座る彼女は、目の前の素晴らしい料理には見向きもせず、咎めるような拗ねるような視線を、絶えずこちらに向けて続けている。
思わず溜息をつきかけ、それを飲み込んだ。……これ以上厄介な状況を作りたくは無い。
俺は黙ってテーブルの上の、彼女の手首にはまったブレスレットのあたりに視線を固定する。今は石像のように沈黙して、これから始まるであろう億劫な時間を耐え抜かなければならないのだ。俺は身じろぎひとつしなかった。
何黙ってんのよ、と、彼女は苛立たしげに言った。
一度堰を切った紅い唇は、それからも俺に対する文句を次々と吐き出していく。
――あなたはいつもそうだった。黙っていればいいと思ってる訳?我慢していたのは自分だけだなんて思わないでよ――……ヒステリックな言葉の数々に辟易する。俺に対して向けられた言葉である筈なのに、何故だか親身にはなれなかった。まるで他人事のように、左から右へすり抜けて行く。
正直、彼女の言い分の大半は間違いだと言えた。
第一に、俺は我慢なんてしたことは無い。黙っていたのはそもそも言うことが無かったからだ。
(俺が何かを言う前に、何もかもを決めてしまったのはお前だろう)
思いはするが口にはしない。もうどうだってよかった。ただただ帰りたくて仕方が無かった。
フォークの先で撫でるばかりで全く進まない食事にうんざりして、俺は彼女にバレないように僅かに視線を余所に向ける。
ふと視界に入った後姿に目が留まった。
ここから斜め向かいの席だ。そこに一人の男が立っている。
複雑に編み込まれた艶のある金髪に、すっと伸びた細い背中。汚れ一つ無い白のシャツ。シンプルな黒いエプロンが腰のあたりを覆っている。その姿から、男がこのレストランのシェフであることがうかがえた。
腕のいいシェフというのは、時に客から食事の席に呼ばれることがある。男もまたそうなのだろう。
よほど忙しかったのだろうか、その手には包丁が握られたままになっていた。思わずぎょっとなるような光景だが、しかし不思議なことに、その美しい刃物はまるで装飾品のように、男の立ち姿に違和感なく馴染んでいた。
二人居る客のうち、右側に座る人のよさそうな老人が、微笑みながら男に話しかけている。
一方の客、孫だろうか、恰幅のいい若い男は、老人とは対照的に不機嫌そうに顔を顰めながら、テーブルに置かれた皿をスプーンで小刻みに叩いていた。
ふと若い男が口を開いた。
「このスープ、温めてくれないか」
店中に響くような、やけに大きな声だった。
続いて、控えめだが良く通る声が俺の耳に届く。
「……申し訳ありませんがお客様。ガスパチョは冷たいスープですので」
シェフの言葉に、老人は困惑ような視線を向ける。しかし男は大柄な体を見せつけるようにふんぞり返ると、「レンジでもなんでも使えばいいだろう」と、横柄に言った。どうやら意見を変える気は無いらしい。
「……ですがお客様」
「いいから黙って言う通りにしろよ!!」
シェフの言葉をさえぎって、男はテーブルを乱暴に叩いた。
(迷惑な客も居たものだな)
思わず現状も忘れて呆れ果てる。
すると次の瞬間、驚くべきことが起こった。
ダァァアアンッッッ
店内に充満するささやかな喧騒を割るように、一際大きな音が響き渡る。
唐突な、まさかの光景に俺は目を見張った。
口をあんぐりと開き呆然とする老人。
驚きと恐怖をないまぜにした表情で絶句する男。
その両者の視線の先。テーブルのド真ん中。
深々と直角に突き立てられた『包丁』からゆっくりと手を離して、シェフは若い男の方へと目を向けた。
「――だァから、出来ねえっつってんだろうが」
思わず目を見張るほどに完璧な均整を備えたその顔はしかし、誰が見ても明らかなほどに激しい怒りを露わにしていた。
ひぃ、と顔を引きつらせる若い男の襟首を、シェフは乱暴に掴みあげる。
「……この世で一ッッ等腕のいいシェフがよ、ドが付く素人のオキャクサマに教えてやる。ガスパチョってのはな、冷てえからうめぇんだよ。うめぇからガスパチョなんだよ。名前の意味は知ってるか?『びしょ濡れのパン』だ。焼きたてでも黒焦げでもねぇ」
息が掛かる距離にまで男の顔を引き寄せ、シェフは唸った。
ぎりぎりと血管が浮き出るほどに握りしめた拳が、故意か否か男の首を容赦なく絞めつけていく。見ているこっちまで苦しくなるようだった。
みるみる青くなっていく男の様子に、あっけにとられていた他のウェイターが漸く我に返った。二人がかりでシェフを男から引きはがす。
その時、騒ぎを聞きつけたのだろう。オーナーと思しきスーツ姿の紳士が、シェフの元に駆け寄ると、間髪入れず、シェフの頬を殴りつけた。
跳ね飛ばされ、シェフは床に尻餅をついた。
殴られた拍子に切ったのだろうか、赤くなった口の端を袖で抑えながら、シェフは怒りの余り肩で息をするオーナーを冷ややかにねめつけている。
「出て行け!!」
オーナーの激昂に、赤みを帯びた唇が僅かに動いた気がした。
『言われなくても』
無言のままにすっくと立ち上がったシェフは、迷うことなく真っ直ぐに、店の出口へと向かう。事情を知らぬ新たな客が、すれ違ったシェフの背中を怪訝そうに見送っていた。
一連の嵐のような出来事に、店内は初めざわざわと騒々しかったが、大仰な仕草で姿勢を正したオーナーがにこやかな笑顔で客たちに謝罪をすると、次第にもとの穏やかさを取り戻していった。
茫然としていた彼女もまた我に返り、一つ咳払いをすると、改めて口を開き始めた。聞くのも億劫な会話を再開するつもりだったのだろう。
だがしかしそうはならなかった。
「ちょ、ちょっと!!」
気が付けば俺は驚く彼女の声に背を向け、シェフの後を追いかけていたのだった。
その時何故そうしたかは、正直自分でもわからない。
だが確かに感じたのだ。これは所謂『運命の出会い』、あるいはそれに類するものなのだと。
ついさっきまで女との修羅場を展開していた男に運命の出会いも糞も無いだろうが、しかしその時のその直感は、何よりも強い確信を伴っていたのだ。
そして実際にこの時の出会いによって、俺の人生は大きく変わることとなる。
(あのシェフは、どこに)
店を飛び出した勢いで転げそうな体をどうにかこらえ、雑踏の中、小さくなっていくシェフの背中を追いかける。
不思議と気分が高揚している。足を進めるにつれ、唇が自然と笑みを形作ってくのを俺は感じた。
兄貴に料理をさせたい病。20121013up
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