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『麻痺だな』

「まひ?」


鼻を啜る少年がしゃがみ込むジンの姿を捉える。
流れる前髪によって隠された片目。その反対側には切れる瞳を持つ相手に少年は、不意に跳ね上がった胸の高まりを隠すように再びバチュルの姿を捉える。

そんな少年に気付かないジンは、今し方発したばかりの少年の言葉に眉を寄せる。
まるで麻痺を知らない発言である。

まさかと思いつつも不規則に震えるバチュルから、少年の姿を映し出した片目。嗚咽は止まったらしいが未だに涙が枯れる様子は無い。
鏡のように少年が映る瞳、反転する視界。自身の腰へと伸びた手は、コートの中に隠れていたポーチのチャックに触れる。そして直ぐに開封音を鳴らした途端に、ガシャガシャと何かがぶつかり合う不緒和音が発生。
音色には程遠いそれが少年、バチュル、エテボース、ポワルンそしてジンの耳へと届く。

『………』

ピタリと止んだ。
自由気ままに鳴り響いていた雑音は消え、電灯に照らされた中で影が揺らめく。
気になった少年は不意に見上げる。だが、同時にそれが何なのかと理解した途端、バスラオの肌の色の如く真っ青に塗り変わる。
それでもジンはそれを握ったままで、少年が大切に包んで居るバチュルを許可なく掴み取る。

テロップをつけるならばグワシ!
勢いよく掴んだようにも見えた手に、体が痺れて自由がきかないバチュルの潰れた声。
前にテレビで見た番組で、ウォーグルがその鋭い爪でミネズミを捕らえ飛び去っていく姿が脳裏に浮かんだ。
ポケモンの食物連鎖と言う番組、何が食べられて何が強く、何が懸命に生きているのか…。
逃げる事のできないミネズミの悲鳴が蘇る。

「やめて!」


気付いたらバチュルは少年の両手から姿を消している。
気付いたら電車が好きかと聞いてきた青年が掴んでいる。
気付いたら更に悲痛な声をあげるバチュルが居る。
気付いたら青年が構える注射器に視線が向けられている。

ゾクリと背筋に走った電気。バチュルと遊んでいて感電した時の様なビリビリと異なるビリビリ。とても嫌な電気だと少年でも分かった。
頭の中で鳴り響くのは警報機。赤、黄、赤、黄と交互に移り変わる二色は少年の行動を促す。


見開いた大きな瞳が足を浮かせるバチュルを捕まえた。そして、危機だと無意識に伸びた両手がポケモンを荒々しく掴むジンの腕へと伸ばされる。
次の瞬間ナマケロの様に抱かれた両手、次にドンと体当たりする勢いでしがみついてきた。

「バチュルを苛めないで!」


注射器に良い思いでの子供なんて居やしない。
誰もが通るだろうあの痛みは体の造りが未熟な子供にとっては、痛々しくもう二度と受けたくないとトラウマを植え付けるものでしたかない。
だから止めた。

バチュルが今よりもっと痛い思いをするのだと。


「やめて!やめて!やめてよ!」


大切な友達なんだ!
先ほどよりも一気に泣き出した少年の涙は、瞬く間にしがみつくジンの腕を濡らす。
晴れ、ジンの腕のみ豪雨となるでしょう。
馬鹿馬鹿しいニュース口調の台詞が脳裏をよぎり、雑念を払いのけたジンはあからさまなため息をはいて見せる。


『痛くはない』

「嘘!前にドクターもそう言って、僕を騙した!」


ピーピーと泣き出した少年に、ジンはめんどくさいと言わんばかりな表情をすれば、唇から覗く歯に少年は息を詰まらせる。グレーのサングラス越に鈍く光る眼が見えた。

少年を支配したのは『恐怖』
今になってしがみついた相手との距離に、怖いと足が竦み胸がフルリと震える。

怖い。怖い。
だけど、バチュルが……。

恐怖によって声が出せなくなったのか、変わりに離すまいと必死にしがみつく少年は首を振るだけ。
痛いくらいに振られるだけで、言葉を発しようとはしない。腕にしがみつく力が僅かに込められる。
いくら子供の力とは言え、作業の邪魔には代わりはない。荒々しく払う事も出来なくは無いが……。


『酷い事はしない』

だから見ていろ。


フッ……と、直ぐ近くで空気が揺らいだ。まるで笑った気がした様な…………
深い瞬き一回。少年が再びジンを見やれば、サングラスは自身ではなくバチュルへと向けられる。
持っていた注射器は持ち方を変え、人差し指と中指の間で挟まれる。
立てていた容器は横へとなり、震えるバチュルの口元へと移動。バチュル、ほら。と、緩やかに呟いたジンの声に少年の籠もる力が抜ける。

すぐ口元にあったそれは注射器の針の先端。おずおずと開ける小さな口に、閉じる前にと素早く含まれた針。
直ぐ近くからはう!と上がる小さな悲鳴。
トラウマとも言える注射器をくわえているのだ。少年に取っては目に毒だろう。
注射器が揺れる。ガジガジとかじっているのが、音と共に分かる。
同時に動くのは注射器のポンプ。
容器の中に入っていた液体は、ゆっくりと押し込む流れに従い先端からバチュルの口へと流れる。
初めはされるがままだったバチュルだが、液体の半分が無くなってきた所で飲む勢いが増した。
最後にはポンプを押さずとも自身から吸いにゆき、気付いた時には注射器の中身は空っぽになっている。

中身のない注射器を離せば、小さなゲップが生まれる。
不規則に震えていた体は、いつの間にか規則正しくなる。
バチュル?
弱々しく少年が名を呼べば、呼ばれたバチュルはすぐさま振り返り少年の胸へと飛び込んだ。
嬉しそうに上がる2つの声。良かった。本当に良かったとバチュルを抱える少年の手の中で、そのポケモンは頬擦りする。

これにて解決。

良かった良かったと大団円で終わる流れだが、そうさせようとしなかったのが一人其処にいた。

空になった注射器からポンプを抜き取り、先端の針を外しては空の中へと放り込み蓋をするかの如くポンプを嵌める。
注射器内部の空気を抜いては、カランと音を鳴らした使用済みを元の場所へと戻す。

背中から降り抜け出したエテボースとポワルンが、ジンの纏う雰囲気を感じ取ったのか二歩下がる。

エテボースが立てた足音に気付いた少年が、ジンへと向き直る。
その口元は溢れんばかりの笑みで満たされ、嬉しそうに白い歯を覗かせた。


「お兄さん!ありがとう!」

僕のバチュル元気になった!
ほら!と小さな両手に乗ったバチュルが、ジンに向けられる。手のひらの中ではバチュルが何度も跳ね上がり、言葉の代わりに体で礼を述べている様子。

だが、ジンはそうか。
としか言わない。
つけていたサングラスをかけ直し、少年とバチュルをそのレンズへと映し出す。


「?」


ジンの異変にやっと気付いたらしい。
お兄さん?と眼深く被った帽子と共に、パートナーのバチュルの頭が同時に傾げる。
ジンは静かに紡ぐ。


「なぁ、少年。今回の事は初めてか?」

今回の事。つまりそれはバチュルが麻痺となり、先ほどの様に苦しむ事を指す。
始めは何に対してと分からなかったが、バチュルと視線があった時脳裏によぎった記憶が言葉を生み出す。

「一回だけあったよ」

『その時はどうした?』

「えっと、レンジャーって人から沢山貰った木の実!あれをバチュルにあげたの!」


何でかは分からないけど治ったよ!
興奮気味に話す少年と、跳ねるバチュル。木の実まずかったけど、一緒に分けて食べたよ!

そう話した途端に、ジンはしゃがんでいた体制から一気に立ち上がる。
いきなり差し込んだ影に、少年はどうしたの?と不安な声を上げる。
サングラスと垂れる前髪によって表情が伺えない。それでも、良い雰囲気では無いと察した少年は息を呑み、ジンを見上げる。

コートを羽織直し、ポケットにしまい込んでいた煙草を一本抜き取る。ギザギザの歯に挟まれた煙草はジッポーにより熱を付けられ、その役目を果たしに出る。あがるは一本の煙。見下ろす先には、幼い2つの存在。
ジンはベンチに座る小さなそれへとこう放った。


『お前、トレーナー辞めちまえ』



















「……………え?」








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