「いだだっだぁ!」
思いっきり打ってしまった額と、鼻からは激しい痛み発生と脳へと信号を送る。同時に生理的に込み上げる涙によって視界が水の底へと成り代わった。
直ぐに引く事の無い痛み。私は鼻先を押さえながらも振り返れば、小さな水色が私の制服を掴んでいたのが水の底から見えた。
水色の制服。
言わずもがな一年生の制服。
小さく幼いその体は私達上級生の様に、難しい体術を受け止められる程の大きさは無い。赤い椛の様に可愛らしい両手は箱庭の向こう側に存在する赤を知らないまま。
揺れたのは小さな黒髪。
どんよりとした雰囲気を背に背負うこの一年生、言わずもがな私の後輩の一人だった。
「伏木蔵」
倒れたままだが私は静かに彼へと振り返れば、彼はバッと顔を上げた。
だが、上げた彼の顔が涙でぐしゃぐしゃになっていた事に私は目を見開くしか無かった。
「伏木蔵?!どうしたんだい?!」
まさか、一緒に倒れてしまった時にどこか強く打ったのだろうか?
よくよく見れば伏木蔵も私と同じく額が赤い。
私達は体を鍛えており、転んだ程度で擦り傷で済み、皮膚を切る事は無いが一年生と言った下級生達は違う。
体は未だに発展途中であり、デリケートだ。
この程度でも額をぶつければ皮膚はパックリと裂けてしまう。
私は痛かったかい?ごめんな?と、額をさすり、傷が出来ていないかを確認する。
しかし、伏木蔵は首を振り、こぼれ落ちた涙を袖で拭いながら私の制服を小さく引っ張ってみせたのだ。
「先っ輩!駄目!」
「え?」
「そっちは、駄目!」
必死になりながらグイグイと引っ張る様子に、私の脳裏に先ほどの光景が蘇る。
途端、足下から込み上げた寒気に吐いた息が、一瞬にして白く染まった。刹那、息がつまり首を締め付けられている感覚に襲われれば、グルグルと巻きつく糸又は紐か何かによって絞められる痛みが生まれた。
だが、瞬き一回。
再び開けた視界には白い息なんて始めから無かった様に今までの世界が広がる。ただただ、伏木蔵が涙を止める事なく、嗚咽を上げながらぎゅうぎゅうと小さな椛に収まる私の制服が映し出される。
行かないで、行かないで先輩。
グズグズと流れ出る鼻水を啜る音。
私は大丈夫。向こうには行かないから。と、額を撫でていた手を背中へと回し、ゆったりと撫でれば彼は静かに首を縦に振り始める。
何故、伏木蔵が行ってはいけないと言うのか?何故、其処までして必死に止めるのか?
理由は分からない。
だけど、一年生には私達六年生には無い柔らかさがある。
ましてや伏木蔵は一年ろ組の生徒。
何かを悟ったのだろう。
向こうに行ってはいけない理由を。
幻か幻覚か?
それとも見えない何かか?
どれにせよ、伏木蔵の忠告を無視して行くわけにも行かない。
「大丈夫。向こうには行かないよ」
「本当に?」
「本当だ。私が伏木蔵との約束を破った事が今まであったかい?」
幼い彼の顔を覗けば、今度は左右へと首が振られる。そして無い、です。と小さく紡がれた言葉に、私は安心する。
「それじゃ、向こうを使わないで他のルートから食堂へ向かおう」
伏木蔵も行くだろ?
解散して先に出て行った伏木蔵が何故こんな所に居るのかは知らない。
しかし、彼が居なかったらきっと私はあの中へと飲まれていたに違いない。
ありがとう。
心の中で述べた感謝の言葉と同時に、差し出した私の手を彼は真っ赤になった手で返す。
私が立ち上がれば浮かんだ様にふわりとした空気を伏木蔵を包む。
そして離さないと言わんばかりに、繋がれた椛が力を込めたのが分かる。
ついこぼれてしまう笑みを誤魔化す様に、私は一歩を踏み出せばあとを追うかの様に伏木蔵も一歩踏み出す。
「どこのルートを使おうかな……」
「新校舎の渡り廊下はどうですか?」
「ああ、此処からだとそっちが一番近いな」
よし!まずはそっちへ行こうか!
明るい言葉を紡げば、落ちていた伏木蔵の空気が軽くなったのが見て分かる。涙目ながらもはい!と元気な返事に私は気持ちが救われた。
チラリと後ろを覗き見る。
先ほど迄其処に存在していた真っ暗闇。
だが、私が見直したその瞬間には何もなく、赤い夕日が廊下全面へと差し込む光景が広がって居た。
一人の六年生と一人の一年生がその場から立ち去っていくのがわかった。
しかし影は動かなかった。
規則正しく並べられた瓦は斜めっており、雨が降ってきた来た際下へと落ちる様に工夫されていた。
そんな瓦の屋根の上。一人の生徒が赤く色づいた空を眺める。
喜怒哀楽と言う表情を見せない影は自身が持っていたそれを、小さく抱き寄せた。
途端、ベン。と鳴った音は空気中を伝い姿見せずに融けて行った。
了
110531
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現29-総55
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