謳えない鹿2 | ナノ



 ▽

目の前にいる存在に彼は困っていた。

彼は次の授業を受ける為に離れにある校舎へと移動していた途中だ。
このまま渡り廊下を渡り左に曲がった後にまっすぐと行けば次の授業が行われる教室に辿り着く。

しかし、その渡り廊下を渡ったのがいけなかったのだろうか?
いや、しかし向こうの校舎へと向かうにはその渡り廊下を使うしか無く、もし他の手で渡れと言われれば校舎の屋根を伝って行く、或いはぐるりと遠回りして向かうかの2択になってしまう。

しかし、教室移動に当てられる時間は長くはなく、上級生になるにつれその移動時間がどんどん縮小されていく。

いや、今はそんな事を考えている場合ではないのだ。

急いで向かわなければ授業が始まってしまう。ただでさえ、座学が他の誰より劣っている彼だからこそ教わる授業内容を頭に入れなければならない。
いくら実技ができても座学が出来なければ意味がない。それに今回は次のテスト範囲の事を言っていたのを彼は記憶している。

いや、しかし……

そんなループがとある五年生の脳内をまわりつづけるのだ。

どうすれば良い?
此処ははっきりと退いて下さいと言うべきか?だが、彼は自身の近くに存在する。
まだ、壁の役割をしている長い前髪のおかげ相手の顔をはっきりと瞳に映し出す事はないものの、僅かな髪の毛の間から見える相手の真っ直ぐな眼差しと目があってしまう。その瞳に彼、亮が息をのむ音がした。


背中は渡り廊下の狭い壁で、背筋に当たるのは外の暖かい風。風が吹く度に亮の長い髪を撫で、同時に目の前の彼のボリュームのある髪の毛がふわりと揺らぐ。

風に撫でられたせいか、目の前の彼の匂いが鼻を掠めた。



『(…………?)』



なんの匂いだろう。体臭といったその人独特のものでは無く、どこかでありふれた様な匂いである。

しかし、そんな事を考えている亮など無視するかの様に、彼はゆっくりと形の良い唇を動かした。





「なぁ」


空気を揺らすかの様な彼の言葉に、亮は何ですか?と答えた時だった。
彼は渡り廊下の背に手を当てていた亮の手をいきなり片方掴み取った。勿論これに亮は驚く。更に後ろへと背を押せば、背中に背負っているある荷物がギシリと悲鳴をあげたのがわかった。
それに隠れている目がピクリと動くが、彼に悟られた様子は無い。

しかし、つかの間。
彼のもう片方の手が亮へと伸びてきた。勿論驚いた亮は自身に触れようとする伸びた手を空中でパシン!と掴み取り、阻止をする。同時に彼の眉がピクリと動いたのが見えた。







「なんで止めるんだ?」

『逆にお聞きします。何故僕に触れるので?』

「前髪じゃまだなと思ってな……前髪をはらえばもしかしたら思い出すかも知れないだろ?」

『………因みに「何を」ですか?』






亮のその言葉で彼はうーんと悩み出す。

亮の目の前にいる彼。着ている制服は六年生のものだが、彼と直線会話をした事等一度もない。しいて言うならば廊下をすれ違い様に掴まれた位であり………


『(あれ?デジャヴ?)』


確かあの時も教室移動していた時に彼に止められた記憶がある。
そして、今回はすれ違いと言うよりも渡り廊下へと出た瞬間に彼が目の前にヒョイと現れたのだ。相手が気配を上手く絶っていた為、亮は存在に気が付かず目の前に現れた途端に後退する。だが、やはり最上級生。間合いを一気に詰められ亮は壁へと追いやられてしまった。
前回はもう一人の六年生が手を貸してなんとか授業に遅刻する事なく行けたが、今回はそうは行かない。
周りに人の気配は無い。

自力でなんとかするしか無いのだ。



すると、彼は考えるのは止めてはまた亮へと視線を向けた。



「六年ろ組、七松小平太」

『?』

「な・ま・え」

『……亮です。摩利支天亮次ノ介五年は組に、この前、編入してきました』


五年は組。そう小さくつぶやく彼はまた亮へと向き直る。



「昔、私達はどこかであったか?」

『………昔?いえ。僕はないです』

「そうか?しかし、私はお前とどこかで会った気がしてな」



どこだったかな?市か?それとも臨海学校の時か?と亮に聞いてくるも、亮はさぁ…としか言えない。
それでも悶々と考え込む小平太。同時に遠くで授業を開始する鐘がなったのが聞こえた。


『(ああ……やってしまった)』


ガクリと肩を落とす亮に小平太は気が付かない。
はっきりと言えば良かったと思うが後の祭りだ。どうしようか?先生にちゃんと謝罪し、聞きそびれたテスト範囲を聞きに行くべきか?

しかし先生は今テスト問題を作っていて忙しいだろうから………
と、ふと小平太に捕まれていた手が離れて行った。自由になった亮の手だが、彼は手を引っ込めたと思いきやまたもや亮の顔へと手を伸ばしてきた。勿論それを掴み取る亮に再び小平太が不満そうな顔つきになったのは言わずもがなである。



「少し位良いだろう?」

『申し訳有りませんが、他人に顔を触れられる程、僕は優しくはないんです先輩』

「他人では無いぞ!私はお前と昔どこかでだな」

『きっと人違いですよ』


何なんだこの先輩は?!亮の口端がピクリと引きつった。
それでも小平太は絶対に会った筈だ!と言い張り、亮が止めていた手をググッと動かし始めた。それに驚いた亮だったが、彼がどうしても自身の前髪をどかしたがっているのだと判断すればさせまいと抵抗する。

五年生と六年生が手を合わせ押し合う異様な光景、きっと第三者から見れば遊んでいる?としか言えない。
しかし当の本人達は真剣で、一歩も引く気配はない。

小平太は亮の前髪を払いに、亮は早く授業に。
決して互いの意見が一致しないこの場に、解決策など全くない。終わりが見えない。攻防の一線で進展が欲しい時だった。いきなり小平太がええい!仕方ない!といきなり声を荒げたと思えば、押していた自身の両手を一気に自らへと引いたのだった。

勿論、触れさせまいと相手側へと押していた力は逆に仇となり、引っ張られた亮は手を掴まれたまま小平太の胸へと顔をぶつけてしまった。


『ぶ!!』


胸にあたるのが分かった。
亮はすぐさま小平太から離れようとした時だった。掴まれている手を彼の後ろへと引っ張られ、上手くバランスが取れなくなってしまった。その為、起きあがろうにも平行感覚が上手く取れない亮には無理な話。
すると、ふと自身へと影が落ちてきたのに亮は気が付く。疑問符を浮かべたと同時に自身の首筋にスン。と小さな風が吹きかけ、ぞわぞわした悪寒が亮の背筋を刺激したのだった。



『せっ!先輩!何を……』

「もしかしたら臭いでわかるかもってな〜」



再びスンスンと鳴らす度に亮は徐々に口元が歪んでいく。
まさかこんな方法で接触してくるとは予想外だった亮にして見れば、対処法が全く思いつかない。
暴れようにも相手は先輩である目上の存在である。失礼な事をするわけには行かない。だが、現に今授業が黙々と進んで居る。遅刻はするだろうが早く行くに越した事はないだろう。

ならば……



未だに首筋に顔を埋める先輩。亮は仕方有りませんがと抱く。





『先輩』

「何だ?」

『目上の方である先輩にこの様な事をするのに酷い失礼だと承知の上です』

「…??…ああ?」

『ですが、僕には優先すべき授業があります』

「おお?」

『なので』




失礼します!
亮が息を飲み込んだ音、それを小平太の耳が拾う。しかし、更に自身へと体重を掛けていた亮に彼は足がよろめいた。
ぐっと胸にのしかかる相手に彼は体制を崩される。同時に掴んでいた手の拘束が緩む。勿論その瞬間に亮は手を引き後ろへと一歩後退した。だが、逃がすまいと小平太の腕が亮へと伸びる。それは亮の肩へと伸び、更にと近付いてくる。

だが、此処で再び捕まる訳には行かない。

亮はすみません!と謝る。驚く小平太だが、ヒュン!と空気を引き裂く音に伸ばしていた腕を瞬時に守りへと入った。同時にガツンと腕にあたる衝撃で、亮が殴ったのだと理解出来る。
しかしその刹那視界の僅か下、何かが揺らめいたのに小平太が気が付くのは同時。

それが亮の足だと理解した時には小平太はわき腹を深く蹴りつけられ、渡り廊下の向こう側へと吹き飛ばされていたのだ。

壁に叩き付けられる前に腕を後ろへと伸ばし、走る刺激をクッション変わりの腕で受け止める。おかげで背中全体で受ける筈の痛みは無く、変わりにジンジンと軽く痺れる腕だけで済んだ。
だが、直ぐに渡り廊下へと小平太が視線を向けた時には亮の姿はどこにも見当たらなかった。


ジグリと痛み出すわき腹。後ろに回していたその手を痛むそこに合わせ誰も居なくなった廊下を、ただ静かに眺めている。











「あれ?」









遠くで下級生達の声がした。












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