夢小説 | ナノ




22:天井の染み

「あれー?」


夜の出来事だ。
布団を敷いている途中、同室者の伊作が訝しげな声を出した。
どうしたと留三郎が言うと、伊作は黙って天井の隅を指差した。


「なんだこの染み」
「こんなの朝あったっけ?」
「覚えてねえな」


灯りを近づけて見ると、天井に小さな黒い染みがポツポツと出来ていた。
心当たりのない染みに首を捻る両者だったが、時間も時間なので早々に片付けることにした。しかしその染みは手拭いで拭いても全く取れず、カビの類だと思っていた留三郎は再び首を捻った。


「とにかく今日はもう寝ようぜ。こう暗くちゃ見えやしねえ」
「それもそうだね」


伊作が布団にもぐったのを確認し、灯りを消した。







翌朝、改めて天井を見てみると確かにそこに染みはあった。ただし、気のせいだろうか。昨晩見た時よりも点が大きくなっているような気がする。


「カビ…じゃないな、墨か?」
「そんな所に墨がつくなんてありえないよ。天井裏に潜むにしてもそんな隅っこじゃ意味ないし」
「そりゃあそうだが…じゃあなんだ?」
「さあ…?」


疑問ばかりが湧く染みだが、やはりただ拭いただけでは取れなかった。
何か薬剤を取りに行くか、と留三郎が考えていると横から伊作に袖を引かれた。なんだと首を動かすと、口に当て布をした伊作が実にイイ笑顔で謎の液体を差し出した。


「おい伊作…それはなんだ」
「一応洗剤かな?」
「一応!?おいそれ使って大丈夫なのかよ!?」
「大丈夫大丈夫!留さん丈夫だし。あ、でも気化するから出来るだけ吸い込まないように気を付けてね!」
「お前準備万端じゃねーか。自分でやれよ」
「僕がやったら多分これ、ばら撒いちゃうよ」
「うっ」
「それに留さんの方がこういうの得意じゃない」
「…ったく、しょーがねえな」


伊作から受け取った、多分劇薬に準ずる謎の液体を出来るだけ触れぬようにして使用してみるも、全く変化はなかった。ただし染みの周囲の板は綺麗になったことから薬の性能が悪い訳ではなさそうだ。


「なんって頑固な染みだ…!」
「取れないねえ…。しょうがない、とりあえず今はこれくらいにして食堂に行こう」
「ああ」


イライラを抑え込みながら、留三郎は部屋を後にした。







薬を使っても駄目となると、もう板を交換してしまうのが一番早いような気がする。しかし、何かと破壊の絶えない忍術学園において、緊急性が高くない限り個人の部屋に宛がう木材などない。いやでも、と木材の在庫を思い返した所で留三郎はハッとした。
別にあんな小さな染みくらい、取れないなら取れないで放っておいてもいいじゃないか。なのになぜ自分はこんなに躍起になっているのだろう。
でも、と留三郎は思った。特に理由はないが、あの染みをずっと残しておくのはなんだか良くないような気がした。そこまで考えがいくと、染みに対する嫌悪感のようなものまで生まれてきたのだから不思議な話だ。

仕方ない、削ってしまおう。これならば文次郎からも文句は出まい。
道具を片手に部屋の戸を開けようと触り、


 ぬ る り


と滑る感触がした。
反射的に手元を見ると、戸にかけた右手は真っ赤な液体で染まっており、一瞬おいて強烈な金属臭が留三郎を襲った。それは、上級生になれば嗅ぎ慣れた、


「血……!?なんで俺の部屋に!」


真っ先に思いついたのは同室者の伊作のことだった。
あいつまたなんか不運起こして流血してんじゃねーだろうな!?
慌てて戸を開け放った留三郎は、部屋の中を見て完全に停止した。


部屋には誰もいなかった。
入口にいる留三郎の足元にまで流れ着いた血。
ちょろちょろと小さな川を遡っていくと、部屋の奥で行き止まり、ぽちゃん、ぽちゃんと波打っていた。
ゆっくりと視線が上げ、辿り着いたのは、天井。

天井の―――染みの在った、場所。

朝見た時よりもさらに大きな点になっていたそこから、じわりと滲み、耐えきれなくなって床に落ちていく赤い玉。ぽちゃん、ぽちゃんと静かな空間に響く。

ああ、あの黒い染みは血だったのか。血は乾くと黒ずむからなあ。
一種の現実逃避だろうか。何故かそんなことを考えていた留三郎を現実に引き戻したのは水音に混じるカタカタという音だった。なんだ、と疑問に思うよりも早くその音が激しいものになる。

カタッ カタカタッ ガタン!
ガタガタ ガタガタガタガタガタ

そこまで激しくなると、音の出所を特定するのは容易だった。
何しろ留三郎はずっとその場所を見ていたのだから。
染みのある天井板がガタガタと音を立てて揺れている。

誰かそこにいるのか?
思いついたそれはひどく現実的で留三郎を安心させた。
そうだ、誰かが天井に忍び込み、手の込んだ悪戯をしているんだ。全く、血糊なんか使いやがって。誰が掃除すると思ってんだ。俺はやらないぞ。


「おい、そこにいるやつ!てめぇいい加減にしろよ!部屋の中が惨劇だろうが!変な悪戯しやがって。いつまでも隠れてないで出て来い!!」


言い終えた瞬間、件の天井板がガタンと音を立てて外れ床に落ち、
             ・・
真っ暗な空間からずるぅりと何かが滑り落ち、
べちゃん! という湿った音と共に部屋の中に現れた。

現れたそれは、黒い髪を、青白い肌を、真っ白な衣を血で真っ赤に染め上げた女だった。女がゆっくりと床に手を付き、四つん這いになる。ボドボドと血が床に流れ落ちるのも気にせず、女は顔を上げた。


「――――――〜〜〜ッ!!」


女の顔を正面から見た留三郎の身体を悪寒が走った。
本来目が在るはずの場所には窪みしかなく、そこからとめどなく血が滴り落ちる。
ニタァ、笑った女の弧を描いた唇から、ごぼりと血が吐き出され、


「―――――――――――――――――!!!!」
「、っうおおぉおおお!!!」


甲高い悲鳴とも雄叫びとも取れる声とともに物凄い速さで留三郎めがけて女が迫ってくる。留三郎は一瞬息を飲んで、頭の中に鳴り響く警音に従って咄嗟に戸を閉めた。
ゴンッ、という音と、柔らかい果実が潰れるような音に血の気が下がる。
直後、ガリガリと戸を引っ掻くような音が聞こえてきた。
女が戸にぶつかった衝撃で後ろに倒れ込んだ留三郎は、すぐにその場から離れようと起き上がろうとし、


「食満先輩?」


真後ろからかけられた声に思わず体を震わせた。しかしその声の主が後輩だと分かるや否やすぐさま立ち上がった。事情が分からず留三郎を注視しているなまえを下がらせ、すぐにここから離れるように言う。
なまえはパチパチと二度程瞬きをした後、じっと留三郎の後ろの戸に視線をやり、こてんと首を傾げた。


「みょうじ、俺の部屋に危険な奴が…」
「いませんよ?」
「え?」


なまえの言葉に驚く留三郎をするりとすり抜け、止める間もなく部屋の戸を開け放った。


「ほら」
「……あ?」


留三郎の目に映ったのは何の変わり映えもしない、いつもの自室の光景だった。
あの化け物じみた女も、血の水たまりも、血の臭いすらなかった。
もしやあの光景は夢か?自分は白昼夢でもみていたのだろうか。
唖然とする留三郎だったが、唯一先程の体験を証拠づけるものを見つけた。


「あの染み…」
「削るんですか?」


見ると、染みは昨晩見た大きさまで戻っていた。
何が何だか分からない留三郎に、なまえが廊下に放り出された道具を拾い上げながら聞いた。なまえはじっと天井を見上げ、「削るのは、やめたほうがいいです」と留三郎に言った。


「手拭い、貸してください」
「手拭い?あ、ああ別に構わないが、でもあの染み、いくら拭っても消えないぞ」
「コツがあるんです」


留三郎から乾いたままの手拭いを借りたなまえは染みの真下まで歩き、天井に手を伸ばして、


「……………」


届きません、という表情でこっちを見るなまえに、留三郎は先程の恐怖も忘れて笑ってしまった。小さな体を抱き上げる。これが他の下級生ならば留三郎はこんな危険なことはさせなかった。しかし相手はあのなまえである。なまえ本人が躊躇いも焦りも見せておらず、また先日の伊作の件もあり、留三郎はなまえの要求にすんなりと応じた。ただし、いつでもなまえを連れて離脱出来るように警戒は怠らなかった。
なまえは留三郎の手を借りてようやく天井に手が届くようになった。そのまま手拭いで乱暴に拭っていく。大雑把に見えるがやっている本人は必死そうだ。一生懸命に手を動かすなまえに和みかけた留三郎だったが、視界に例の染みが映り、そんなものはどこかへ吹っ飛んでしまった。


「嘘だろ…?」


留三郎が今朝使ったものと同じ手拭いである。今は水で濡らしてさえいない。それなのになまえが一拭きするだけで染みは薄くなり、後は数回擦るだけで跡形もなく消えてしまった。


「終わりました!」


全ての染みを消し終えたなまえは満足げに頷き、留三郎が床に降ろすのを待っている。
留三郎は一瞬戸惑いを見せたものの、すぐになまえを降ろした。そして、元々染みなんか存在していなかったかのような天井を見ながらなまえに聞いた。


「薬を使っても取れなかったっていうのに、一体どんな裏技を使ったらこんなに綺麗さっぱり染みが取れるんだ?」
「コツがあるんです」
「コツ?」


作業の前に言った言葉を繰り返したなまえは、更に聞かれて言葉に詰まった。
それは言い渋るというよりは言葉に出来ないというような様子だった。あーうーと無意味な言葉を出しながら両手を動かす無意味なジェスチャーからかなり困っているように思えた。
うんうんと唸るなまえ見て、この子供っぽい後輩に幾度安らぎを貰っただろうか。
下級生を困らせるのは趣味ではないし、あまりやりすぎると作兵衛から怒られてしまうだろう。世話焼きで心配性な後輩を思い浮かべ、留三郎は話題を変えることにしたが、


「みょうじ!」
「久々知?」


その前に兵助が心配そうな表情で現れた。なまえに駆け寄り「遅いから心配したんだぞ、何かあったのか?」と聞かれ、なまえはきょとんとしてすぐに首を横に振った。兵助はなまえの体にざっと視線を走らせ、特に怪我や異変がないことを確認してようやく安堵した。すぐ横に立っていた留三郎を見て、軽く会釈した。


「先輩に話は付けてくれたのか?」
「話?」
「あっ、あのっ、硝煙蔵の棚が壊れそうでですねっ」


まだ話してなかったのか…。
兵助が呆れ気味にそう言うと、なまえはうう、と申し訳なさそうに下を向いた。
もしや泣きだすのではと焦ったのは子供に弱い上級生二人である。


「みょうじ、大丈夫だ、久々知は全然怒ってないからな?」
「そ、そうだみょうじ。俺は全然怒ってない!だから顔を上げてくれ、な?」
「…………」


ちら、と様子を窺うなまえに笑いかけ、精一杯怒っていないアピールをする兵助。
それを見て安心したのか、ホッとした表情をした後、なまえは兵助の手を握った。突然の行動に驚く留三郎を置き去りにして、当然のようにその手を握り返した兵助は「先輩と何かしてたのか?」となまえの目を見ながら聞いた。


「お掃除してました!」
「掃除?先輩の部屋を?」
「はい!天井を綺麗にしました!食満先輩が持ち上げてくれたんです」


高い所に手が届いて嬉しかったのだろうか。にこにこしながら話すなまえに「そうか、」と返して、「でも今は委員会中だから硝煙蔵に戻ろうな。みんな心配してたぞ」と伝えた。
なまえの元気がいい「はあい!」と返事を聞いてから、兵助は硝煙蔵の棚の修理を留三郎に頼み、手を繋いだままその場から去って行った。








「食満先輩」


翌日の午後、女装授業の帰りらしいなまえから声をかけられた。
薄化粧しかいない下級生の中でも特に化粧の薄いなまえの女装は、なまえの幼い顔立ちにとても似合っていた。


「何か俺に用か?」


一通り女装姿を褒め終えた留三郎がなまえに聞くと、なまえはこくこくと頷き、プレゼント用に包装された包みを取り出した。


「あの、これ」
「…俺にか?」
「はい!」
「なまえ!早く先生に報告しないと点数貰えないよ」


一体どうして、と理由を聞こうとした留三郎だったが、なまえは同じ組の孫兵に呼ばれてすぐに行ってしまった。
留三郎はしばらく包みを眺めていたが、中身が気になって開けることにした。


「手拭い?」


重さから軽い物だと思っていたが、中身はシンプルなデザインの手拭いだった。
一体どうしてなまえから手拭いを贈られたのだろうと記憶を辿っていくと、そういえば昨日、染みを拭う際に貸した手拭いを返してもらった記憶がない。
その代わりということだろうか。


「真面目だなあ…」


悪い子ではない。むしろ良い子である。それは留三郎にもよく分かっているし、この学園にいる誰もがそう思っているはずだ。
だからこそ、あまり危険には近づいて欲しくないのだ。そのことが、本人にうまく伝わっているだろうか。

無邪気にニコニコと笑う可愛い後輩を思い浮かべて、染みの件も含めて何をお返ししようかと、留三郎は歩きながら考え始めた。
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