夢小説 | ナノ




13:濡れ女

「うわあ…すっかり暗くなっちゃったなあ…」


綾部特製の蛸壷から這い出し、頭上に見えた月を見て伊作は思わずそうこぼした。
厠に落とし紙を補充しに行った帰りだった。
衣に付いた泥を手で払い、顔まで手を持って行った所で、ぬるりとした感触に顔しかめた。
どうやら頬を少し切ってしまったらしい。どうせ保健室に戻るのだから慌てる必要もないのだが、顔に付いた泥を落とさなくてはならない。幸い、すぐ側に池がある。今日は月明かりも多いので、反射で傷の様子も分かるだろう。
そっと覗きこむと泥だらけの自分の顔が映った。苦笑しながら水を掬い、傷を庇いながら顔を洗う。滴る水を拭いながらなんとなく水面を眺めていると、何か違和感を感じた。
水面に浮かぶのは、見慣れた自分の顔と、月。そして、


「……女…?」


うっすらと、女の顔のようなものが見える気がする。
それは段々大きく、はっきりと見えてきて、伊作は思わず振り返った。


「誰もいない…?」


伊作と同じに、水面に顔が見えていたのに。
てっきり伊作の背後に誰かが近付いてきていると思ったが、


チャプ…


後ろからした水音を聞いて唐突に伊作は理解した。
あの女は、伊作の側に立っていたのではない。
・・・・・・・・
池の中にいたのだ。


「……ッ!」


池から離れようと足に力を入れた瞬間、強い力で足首を掴まれた。そのまま後ろへ引かれ、地面に倒れこむ。
足首を見ようと上体を捩じったことを、伊作は後悔した。


「ひっ…」


伊作の足首を掴んでいたのは細く、長く、異様に白い手だった。
そして、その手の持ち主は、闇のような黒く長い濡れた髪を振りみだした女だった。
伊作とその女の目が合うと、女は口を歪めてニィ、と笑った。


「うっわ…!」


そのまま後方に引き摺られる。その力の強さに驚く前にひどく焦った。
慌ててクナイを地面に突き刺すが、全く障害にならなかった。


「―――――っ!」


次の瞬間には冷たい水の中だった。
咄嗟に肺に空気を押し込み、すぐに浮上しようとするが片足を掴まれているためなかなか思うようにいかない。それどころか逆に底へ底へと沈められていく。

迷ったのは一瞬だった。

身体を屈め、足首を掴む腕を逆に掴み、手に持っていたクナイを深く突き刺した。
相手も痛覚はあるようで、痛みに怯み手が離れた。その隙を見逃さず、伊作は大きく水中を蹴る。水面からは大分沈んでいたが伊作とて男であり、六年生だ。すぐさま浮上し、水を掻く手が池から出る、その時。


「!!?」


ガツン、と何かに阻まれてしまった。
驚愕し、水面に手を伸ばすが、決して外へ出ることはなかった。まるでそこに見えない壁があるかのように阻まれる。


「(あ、留三郎…!)」


水面に顔を寄せているとちょうど近くを通りがかったらしい留三郎が見えた。
池を覗きこむ留三郎に、伊作は必死に水面を叩き、助けを求めるが、気付くどころか目も合わない。
そしてとうとう池から離れていった留三郎に、伊作は絶望した。
池からは出られない。もう息も持たない。そして、

がしり、と。

再び足に纏わりつく感触に、伊作は、もう、




じゃぼん。




突然、目の前に小さな手が現れた。
池に突っ込まれたその手は、伊作と比べると随分と華奢で、見覚えのある傷跡があった。

伊作に纏わりついていた手の力が緩んだ。
そして伊作は、その小さな手を取り、


「―――ッ、ガハッ、げほ…っ」


急に肺に流れ込んできた酸素に、思わず咽返った。
咳き込みながらも一刻も早く池から出たかった伊作は、淵に手をかけ、這い出た。
荒い息を繰り返す伊作の背を、小さな手が擦る。
ようやっと息が整い、顔を確認すると、そこにいたのはやはり三年のみょうじだった。みょうじは心配そうな顔で伊作を見ている。


「みょうじ…」
「善法寺先輩、大丈夫ですか…?」
「う、うん。大丈夫だよ……」
「伊作!? 池に落ちたのか!!?」


眉を下げるみょうじを安心させたくて笑顔を作った伊作に、留三郎が驚いたような声をかけた。














「ねえねえ乱太郎、知ってる?濡れ女の噂」
「濡れ女?何それ?」
「濡れ女っていうのは、妖で、水場に人を引き摺りこんで喰らうんだよ」
「ええぇ…」
「今、川とか海の近くで行方不明になってる人多いから、濡れ女の仕業じゃないかって。すごいスリル〜」

「こら、お前たち。お喋りしてないで手を動かす!」


左近に叱られて慌てて包帯づくりを再開する二人を見て、昨日の出来事を思い出す。
あの後、留三郎に池を覗きこんでいたのに自分に気がつかなかったのか聞いた所、「全く気がつかなかった」とバツの悪そうな顔をして謝られた。

そもそもなぜ留三郎があの場所にいたのかというと、委員会の片付けがあったらしい。
風呂に入ろうと歩いてたらみょうじがじっと池を見ていたので、声をかけた。
そうしたら、池に何かがいるような気がすると言う。曲者かと思って覗いてみたが、誰もいない。水遁を使っている様子もなかった。
気の所為だと伝え、そのまま風呂に向かったが、何となくみょうじが気になって戻ってみたら、みょうじは池の側に近寄り、中をじっと見ていた。
足を滑らせて落ちるんじゃないかと思って心配していたら、急に池の中に腕を突っ込んだもんだから驚いた。その後池から伊作が出てきたときにはもっと驚いた。

しかし、自分が見た時には絶対に伊作は見えなかったと留三郎は断言した。


きっと、留三郎は嘘をついていないだろう、と伊作は思う。きっと彼には自分の姿は見えなかったに違いない。
そして、みょうじにはみえたんだろう。最近、彼の周りは何かと騒がしいが、きっとそういうものに縁があるのだろう。
そう考えながら、伊作は薬草作りに取りかかった。先程、生物委員会の毒虫が脱走したという話を聞いた。
毒虫の捜索は得意なくせに、捕獲が下手でよく手を噛まれているあの後輩が来るような気がして、解毒薬の調合を、始めた。
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