高校の入学式の日、浮かれていたわたしが一気に奈落の底に落とされたあの日のことを一生忘れることなんて出来やしないだろう。けれど、今わたしの唇に彼が噛み付いているという事実は死んだって忘れられそうにないのだ。
どうしてこうなった。何度も食らいつくような接吻に抵抗すら出来ない。息をしたくても次から次へと唇が食われるものだから、酸欠で脳みそがくらりと揺れる。逃げようにも壁に押し付けられ、両足の間には彼の足。そして右側は彼の手で壁が作られている。左は開いているが、彼のもう片方の手が顎を掴んで離さないので脱出不可能。何より今は授業中でここは屋上という誰も訪れることのない時間と場所。無敵の檻に入れられた凡人のわたしはどうすることも出来ない。ただただ目を強くつむって、酸素を求めるしか出来ないのだ。


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わたしと彼との出会いは小学四年生の夏のこと。親の転勤で転校した小学校で、彼 青峰くんに目をつけられたことが全ての始まりだった。何故か分からないが、転校初日から青峰くんはわたしに嫌がらせをしてきた。別にわたしは何もした覚えはない。隣の席だったから当たり障りのない挨拶をしたぐらいだ。ちなみに青峰くんに受けた嫌がらせとは、セミをランドセルの中に入れられたり、横を通る度に足を引っ掛けられたり、お気に入りの鉛筆を取られたりと小学生らしい幼稚なものばかり。それでも小学生のわたしには酷なものに感じ、特にひどい嫌がらせを受けた日は夜な夜な泣いたものだ。本人の前では絶対に泣かなかったけれど。
しかしそんな最悪な小学校生活を送っていたわたしにも天機が訪れた。それは小学校を卒業する間近のある日のこと。青峰くんが帝光中に行くという噂を小耳にはさんだのだ。帝光中は私立中、わたしはお受験もせずに近くの公立中に入学する予定であった。つまり青峰くんと違う中学校に行けるのだ。それに気づいた時のわたしの喜び様は異常だったと思う。卒業式までの数日間、どんな嫌がらせを受けてもケラケラと笑ってスルー出来るくらいに。そんなわたしを青峰くんや友達は変なものを見る目で見てきたけれど何とも思わなかった。それぐらいに嬉しかったのだ。青峰くんから離れられることが。
そしてわたしは幸せ気分の間々中学校に入学し、小学生の時の嫌な思い出を忘れるくらいに楽しく過ごした。あの時は青峰くんのことなんて頭の片隅にさえなかったと思う。そしてわたしは自分のレベルに合い、なおかつ校舎がきれいという理由で高校を決め、そして受験をし晴れて入学式を迎えることになるのだ、が。人生というのはそんなに柔なものではなく、入学式の日にわたしはとんでもないものを目にする。きれいな校舎にうきうきしながら入った教室で、あの青い彼を見つけてしまったのだ。その時の気持ちを例えろと言われても頭の引き出しにはそれに相当するショックが見当たらない。それぐらいに衝撃的なことだった。
わたしはその衝撃を受け入れられなくて、教室の入口はしばらくフリーズしていた。そんなわたしを目で捕らえた時の青峰くんの顔といえばなんとも間抜けだった。けれど瞬時にあの頃のような人相の悪い笑みをうかべた時、わたしの体温は0になったのではないかと錯覚させられた。そして近づいてくる彼にわたしは脱兎の如く逃げようとするが、すぐに捕まってしまう。「よお、久しぶりだな」にやにやと笑う彼にわたしの高校生活終了のアナウンスが聞こえたような気がした。
その日からというもの、わたしは青峰くんのおもちゃとなる。デザートとして持ってきていた自作のプリンを奪われたり、休憩中に寝ていたらいつの間にか写メを撮られていたり、ちょっと気合いをいれて巻いた髪を「似合ってない」と一喝されぐちゃぐちゃにされたりと相変わらず幼稚なことばかりしてくるのだ。友達には素直になれないだけじゃないのと言われるが、あれを何年も受けていたのだからそんな甘ったるい考えなんて今更持てやしない。それに小学生のとき、彼が言っていたことを聞いたもの。クラスの女子が彼に、「素直になりなよ。あの子のこと好きなんでしょ」と言ったのに対し「あいつが気にくわねえだけだし」と彼が答えたのを。


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体の力が抜けてきた。膝はがくがくと笑う。ぼんやりとした頭で思うのは、ファーストキスを奪われてしまったということ。わたしはあまり貞操概念とかを強く思っていないけれど、出来ることなら恋人としたかった。年齢イコール恋人いない歴のわたしがいうのもなんだけれど。
ふわり、体が浮くような感覚に襲われる。足はしっかりと地面についているはずなのに。これはまずいと生命本能が鐘を打ち鳴らす。肺が苦しい。あまり力のはいらない手で彼の腕を掴む。その手が小刻みに震えるのは酸欠だから。恐怖とかそういうものじゃないと思う。軽いリップ音がして、やっと楽になる。思いっきり肺に息を送り込めば、握りしめられるような痛さは和らいでいった。わたしが肩を上下させながら息をしているというのに、当人は呼吸を全く乱していない。肺活量のちがいなのか、はたまた経験の差なのか。多分前者だろう。雰囲気的に彼もその手のことにはまだ経験がなさそうだから。
滲んだ汗のせいで額に髪が張り付いている。直したいと思っていると、彼の手がはらりと前髪をすくった。

「……これも嫌がらせ、なの?」

なるたけ静かにそう問う。髪をいじる青峰くんの指先がぴくりと震えた気がした。
馬鹿じゃねーの、小さく聞こえたその言葉はどういう意味なのだろう。ただ間を持たせるために馬鹿と言っただけなのか、それとも嫌がらせなんかじゃないという意味なのか、わたしには分からない。
青峰くんに好きな子はいるのだろうか。だとしたらこんなことは止めるべきだ。この行為はわたしと彼がしても何も生み出せない。生み出したとしても、それはマイナスのもの。誰も幸せにならない、むしろ不幸になってしまうようなものだろう。
じっと彼の目を見つめれば、少しだけ細められる。

「好きでもねーやつにこんなことしねえよ」

下唇ががぶりと噛まれた。噛まれたといっても痛くないのは手加減をしてくれているから。本気で噛まれたりなんかしたら痛いどころの騒ぎではないもの。何かを探るように唇を食まれるのはなんだか胸の奥がくすぐられているような感じ。どうしようもないもどかしさに包まれる。
ぎゅっとだらし無く壁に沿って地面にのびていた手を握られる。掴んだ彼の手は震えていた。


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