小さな青いバケツの中を覗くあいつは、ひどく頬をたるませている。そんなあいつの視線は、俺の捕まえてきたザリガニに占領されていて、なんだかそれは妙に気にくわない。ザリガニなんか見てて楽しいのかよとぼやいても、そのザリガニなんかに釘付けなあいつの耳には届かない。寝てしまおうかと横になればあいつは、俺の方に顔を向け、目を細めた。
まだ夏を感じさせる風が、屋上を吹き抜けた。あいつは、風に舞う横髪を耳にかける。その仕草は、俺たちが出会ったあの日を彷彿とさせた。





「何やってんだ」

いつものように、かったるい部活をサボろうとやってきた屋上の隅に、あいつはいた。フェンスに寄掛かるように足を立てて座っていたあいつは、俺を見ると大きく肩を震わせた。まるでうさぎのように身を縮こまらせるあいつは、俺の楽しくない毎日の中では一際面白く感じたから、俺は近づいて話しかけた。するとあいつは怯えたように足と足の間に顔を埋めて、降参と両手を上げた。そんな姿を見て、俺はポカンと口を開けそうになるが、堪える。

「別に何もしねえよ」

ただ、話したかっただけだ。鼻をかきながらそう言うと、あいつは逃げ腰になりながらも顔を上げた。

「これ、やる。怖がらせて悪かったな」

ポケットから取り出した、牛柄の包みの小さなチョコレートを投げる。弧を描いて手元に落ちたそれを、あいつは目を丸くして見つめた。

「俺、今から寝っから、あんま湿っぽい空気出すなよ。それやったんだからな」

ぱちくりとまばたきを繰り返すあいつを尻目に、俺はペントハウスに向かおうと身を翻す。ポケットに手を突っ込んで歩いていると、背中にわずかな衝撃。なんだと思って振り返ると、さっきまで唖然としていたはずのあいつがいた。
ありがとう、チョコレートを握りしめ、確かにあいつはそう口を動かした。予期していなかった展開に呆然とあいつを見下ろしていると、突然強い風が吹く。風になびく髪の毛を、あいつはゆっくりと耳にかけた。
その瞬間、俺の世界は忘れていたはずの瞬きを繰り返した。

あいつと出会った次の日、さつきにあいつの話を聞いた。あいつはさつきと同じクラスだそうだ。明るい性格で、いつでもどこででも歌を歌っていたぐらいに歌が好きだったとさつきは言った。そして、その歌は、透き通るようなきれいで優しい音色を放っていて、将来をみんなから期待されていたとも。そんな説明なんかでは、どれくらい上手かったのか俺には今一つ分からなかったが、とにかく上手いということは理解できた。
あいつは屋上で、声を出さず、踞るように座っていた。少なくともその時のあいつは明るい性格になんて、これっぽっちも見えなかった。





特に何も考えずに、ムカつくぐらい青い空を見上げていると、顔に冷たくてうっすら生臭いものが乗せられる。反射的に起き上がると、ぽとりとズボンの上に何かが落ちた。赤いそいつはハサミを俺に向けて威嚇をしている。

「おい」

ドスの効いた声を出すと、あいつは口角を思いっきり上げて笑った。まるで馬鹿にするようなその笑みに短気な俺は、赤いハサミの生物を掴み、あいつの方へ走り出す。するとあいつは、はしゃぎながら逃げ出す。が、俺はすぐに追い付き、あいつの首根っこを掴んだ。すると、あいつは顔をほころばせた。結託ないその笑みを見ていると、なんだか全てが馬鹿らしくなってくる。だから、あいつを離し、頭をかきながら屋上のペントハウスに向かった。もちろんザリガニをバケツに戻した後で。欠伸をしながらペントハウスに上ろうと階段に足をかけると、ひよこみたいにあいつがついてくるものだから、仕方なく上に行くのは諦めた。落ち着きのないあいつが上に行くのは危なすぎるからな。
屋上のちょうど日陰になったところへ行き、壁際に座り込む。壁に背を預けて目を閉じると、俺はすぐさま眠りに落ちた。





いつかメールしていた時、あいつは言っていた。自分は歌の歌い方を忘れてしまった。というか、声の出しかたが分からなくなったと。何故なのかという理由は聞いていないが、俺が思うに、あいつは周りからの期待に押し潰されたのだと思う。最初は趣味で始めた歌が、才能が開花していくにつれて、周囲の大人に輝くようなあいつの将来の輪郭を見せ始めたのだ。そして、大人たちはあいつに行きすぎた期待や夢を押し付け、潰した。
ドラマや漫画では、よくある話。そのような現実味のないありふれた話だからこそ、あいつ以外の人間には、あいつが声を出せなくなった本当の意味が分からないのだ。
俺だって、あいつが歌えなくなった訳なんて知らない。だからさっきの話はあくまで仮定に過ぎない。理由なんてあいつにしか分からないのだ。いや、もしかすると、あいつにも分からないのかもしれない。ただ、あいつのことをたいして知らない俺でも、理解できることが1つだけある。
大好きで仕方のなかったものが、一気につまらなくなるあの瞬間は、口では説明出来ないくらいに辛くて悲しいのだ。





鼻先をくすぐる風に俺は目を覚ました。何気なく視界に入ったあいつに顔をしかめる。あいつは俺の隣で気持ち良さそうに眠っていた。いくら気を許しているからといって、男の前で無防備に寝るなんてあり得ない。逆を言えば、それだけ自分が信頼されているということだが、頂けない。もっと意識してくれてもいいんじゃないのか。
息をする度に、ふるふると揺れる睫毛の誘惑に負けた俺は、手を伸ばした。触れた頬は想像していた以上に柔らかくて、心臓が止まりそうになる。そんな俺は、次に少し開いた口に意識を取られた。淡いピンクの唇には、何もつけられていないのに、艶やかで、その存在を示している。あいつを起こさないように、恐る恐る触ると、その弾力に俺の中で何かが爆発しそうになった。
しばらく柔らかさを堪能した後、俺は脱力したように壁に寄りかかる。こんなことで心臓が破裂しそうになるとか、柄じゃない。なのにこれだ。あり得ねえ。頭の中で回るのはあり得ないという単語。ドキドキするとかあり得ねえ。かわいいとかあり得ねえ。もっと触りたいとか本当にあり得ねえ。
悶々とする俺の横で、馬鹿みたいに寝るあいつ。そんなあいつへの、苛つきに近い何かに駆られた俺は、せめてもの仕返しということで、鼻をつまんでやった。しばらくすると、息ができなくなっていたあいつは、苦しそうに目を覚ます。軽く咳をしながら俺をにらむあいつは、自分ではライオンのような鋭い目付きをイメージしているのだろうが、俺にはうさぎが精一杯の威嚇しているようにしか見えなかった。わりぃわりぃと笑いを含んで謝れば、あいつは納得がいかないというようにそっぽを向く。なので、わしゃわしゃと撫でてやると、不満そうながらも大人しくしていた。
いつの間にか赤く染まっていた空を仰ぐ。燃えているような空を、二羽のカラスが寄り添うように飛んでいた。

「そろそろ、帰るか」

欠伸を噛み殺しながらそう言うと、あいつはこくんと頷いた。目尻に溜まった涙を拭う。重い腰をあげると、隣のあいつは俺に向かって手を伸ばしてきた。しょうがねえななんてぼやきながら、その手を引っ張ってやれば、あいつはその反動で起き上がる。ありがとうと口パクで伝えるあいつの笑顔は、夕日に負けないくらいに眩しい。

いつかの遠い未来でもいいから、あいつの声を聞けたらいい。そのためなら俺はきっと何年でも何十年でも隣にいるだろう。
いつかあいつの好きで好きで仕方のなかった歌を聞きたい。そのためなら俺はあいつを世界一の幸せ者にしてやるのに。
ただ、俺が言っていることは、名前が長すぎて覚えられないような著名人や、とりあえずすごいことしか分からない偉い科学者からすれば、ただの戯れ言にしか過ぎないのだろう。確かに下らないことなのかもしれない。だが、いつかあいつが前のように好きに歌えるようになって欲しいということ、それだけは絶対に譲れない。
あいつが声をだして笑えるならどんな未来だっていいんだ。例え、あいつの隣にいるのが俺じゃない未来だとしても。

屋上から校内へ続くドアを開ければ、風が俺たちの間をすり抜けた。目を細めるあいつは髪を耳にかける。
まだ夕方なのに、俺にはきらきらと瞬く小さな星がいくつも見えた。


ぼくをやさしくする人
ーーーーーーーーーーーー
Dear 桐谷さん
20000hit thanks
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -