「先輩、おはようございます」

涼太みたいなモデルスマイルを意識して挨拶をすれば、先輩はたどたどしく挨拶をかえしてくれた。一瞬だけあった目に胸が高鳴る。笠松先輩は基本、あまりわたしと目を合わせてくれない。でもそれは嫌われているからではなくて、ただ単に先輩が女慣れしていないからだと思っている。先輩は女の子の写真を見るのでさえためらうような人だと知っているから。まあ本音をいえば、あくまでそれらは建て前に過ぎず、そう思わなければわたしの心は簡単にポキリと折れてしまうのだが。
先輩にアピールを始めてから早二ヶ月。とりあえず後輩の黄瀬涼太の双子の妹ということで、一緒にいられる機会が何度もあるが先輩はわたしに心を許してくれない。バスケ部の人やクラスの男子、あと涼太とかと一緒にいるときは勢いよくツッコミをしたり肩パンとかしているのに、わたしと一緒にいるときはその面影など全くといって言いほどない。話しかけても素っ気ない返事しかかえってこないし、隣を歩けば必然と距離をとられる。何度男の子に生まれれば良かったと思ったことか。けれどそれらの行為は全て、わたしを女の子と意識してされているからわたしの心は未だ折れずにいる。

「涼太…」
「何ッスか」
「笠松先輩はどうやったら振り向いてくれるの…」
「…さあ?」

先程の前フリでわたしの心は未だ折れずにいるといったが、実際あれは嘘だ。本当はとっくの昔にボロボロになっている。先輩がわたしのことを苦手なのははっきりしているもの。わたしは苦手認識されていても盲目に好き好き言い続けられるようなダイアモンドのハートの持ち主ではない。ただ、それでもわたしが笠松先輩にアピールをするのは諦められないから。諦めたら楽だと思って、何度もこの気持ちを捨てようとしたけれどそう簡単にはいかないのだ。なんせわたしはこれが初めての恋なのだから。

「…少し距離でも開けてみれば良いんじゃないッスか。テコ入れ的な感じで」

大きな欠伸をする涼太にちゃんと考えてよと文句を言ってみるが、テコ入れは有りかもしれないと密かに思う。押しても駄目なら引いてみなと昔から言われているし。もしかしたらあの笠松先輩が話し掛けなくなったことで、少しくらいは何かわたしのことを思ってくれるかもしれない。そう淡い期待をよせつつも、すぐにマイナスの部分を見つけたわたしは肩を落とす。もし笠松先輩がわたしが話し掛けなくなったことに関して何も感じなかったら、きっとそれから話すこともなくこの恋が終わってしまうかもしれないのだ。そうなったらわたしのノーマルなハートは粉々どころか跡形もなく消え去るだろう。でも、何かアクションを起こさなければこの状況が変わることなんて有り得ない。距離を置く、小さく呟いてみるとストンと胸の中に落ちた。

それから三日後わたしは後悔をする。そして八つ当たりとして涼太に学校で出会う度に頭突きをくらわすようにしている。そうでもしなければやっていけないのだ。先輩と距離を置いてもとくに何も起こらず、前よりも距離が開いてしまったのだもの。涙で歪む視界にうつる黄色はわたしをみて息をつく。こうやって何も言わずに側にいてくれる涼太の心遣いが今のわたしにとっては身に染みることで、ついに涙がぽろりとこぼれる。涼太が何も言わないのはわたしのことをよく分かっているから。変に励まされると自分の情けなさに余計気分を落とすわたしを知っているのだ。さすが双子。ずっと一緒にいたのだ。下手をしたらお互いのことお互い以上に知っているかもしれない。放課後になって涼太がわたしのクラスに突然やってきた時は驚いたけれど、多分なんとなく分かったんだと思う。そろそろわたしが限界を迎える頃だって。本来涼太は今部活をしている時間で、いつものわたしなら涼太について笠松先輩を見に行っているはずだ。わたしはともかく、涼太は早く部活に行かないと先輩にシバかれるだろう。でもわたしの前から動かない。その優しさに甘えてしまうわたしは駄目な人間だ。
ハンカチをポケットからだし涙を拭う。あんまり擦ると赤くなるッスよと心配する涼太。そんな涼太に部活行きなよと告げる。涼太は眉をひそめ、行って欲しいんスかとつぶやいた。首を縦に振れば分かったと言わんばかりに立ち上がる涼太。

「いつまでここにいるつもりっスか」
「涼太が部活終わるまで」
「…了解っス」

行ってくるっスと軽く手を振って涼太は歩きだす。上履きの音がだんだん小さくなるのを確かめ、わたしは鼻をすすった。



▽△▽△



「先輩、最近元気ないっスね」

自主練を終え着替えるために部室に行けば、先にあがっていた黄瀬がいた。椅子に座って俺を見据える黄瀬についハア?と抜けた声がでる。そんな俺に黄瀬は先輩鈍いから気づいてないんスよと告げる。何偉そうなこと言ってんだとどつけば黄瀬はいつものように痛いっスよと声をあげた。

「先輩、名前に話し掛けられなくなってからバスケしていない時、元気ないっスよね」

黄瀬の言葉に目を見開く。何言ってんだよという言葉は喉をつっかえて出てこない。全てを見通したような目に俺をうつす黄瀬。彼女が俺にくっついて来なくなったから元気がないなんて馬鹿げていると思ったが、すぐにもやもやしたものが腹に溜まる。喉が熱い。そして俺は初めて最近の自分の心情の異変に気づく。そうか、ここ二三日、ずっと何かが足りないとぐずっていた心はそういうことだったのか。
黄瀬のくせに気づきやがって。バーカと椅子に座る黄瀬の髪を乱せば、やつはせっかくセットしたのに崩れるっスと慌てた。そんな黄瀬にケッと嫌みを吐き出す。
髪を直した黄瀬は床に置いていた鞄を取り立ち上がる。お先に失礼するっスと声をかけられたので適当に返事を返す。すると黄瀬が何かを思い出したような声をあげた。

「先輩」
「あ?」
「今日俺一人で帰りたい気分なんで、」

名前を頼むっス。あいつ多分教室いるんで。そう言って部室から出る黄瀬に俺はびくりと体を揺らす。バタンと音を建てて閉まった部室の扉を急いで開けて、後ろ姿の黄瀬に叫ぶ。どういう意味だ、と。それを聞いた黄瀬は振り返りいつもとは違う哀愁漂う笑みを見せた。

「あいつ、先輩のこと意図的に避けてたんスよ。気を引くために」
「は、」
「でも先輩が気にしてないそぶりを見せるから、寂しくなって泣いてるんス。だから今日は一緒に帰ってやって欲しいっス」

かわいい後輩のお願い、聞いてくださいっス。いつもと纏う雰囲気の違う黄瀬に驚きながらも、やつの言葉に時間が止まったかのような感覚を得る。早くいってやって下さい。珍しくきちんとした敬語を使う黄瀬。それじゃお疲れっスと軽く手をあげ背を向ける黄瀬の後ろ姿を、俺はぼんやりと見ていた。
少しして黄瀬が見えなくなると俺はハッとした。そして慌てたように部室に戻り、急いで練習着を脱ぎ制服に着替える。ネクタイを結ぶのがめんどうでズボンのポケットに押し込む。そして鞄に練習着を無理矢理突っ込み、エナメルバックを肩にかけ部室を出た。校舎へと続く渡り廊下を走っていると、少し先に黄瀬が見える。すれ違い様にぼそりと聞こえた声に俺はバーカとつぶやいた。妹に手をだしたら先輩でも許さないっスよ、黄瀬はとんだシスコンだ。

全速力で走っていると厳しいと有名な体育教師と出会った。なぜまだ学校にいるのかと低い声をあげられる。ちょっと忘れ物したんでと適当に濁して走り去れば、廊下を走るなと怒鳴られる。忘れ物、そうだな忘れ物だ。教室にいるであろう彼女のことが頭を過ぎった。
3階までの階段を二段飛ばしで駆け上がる。電気も点けずに暗い中を走るから危険なのは言うまでもない。しかし今は電気を点けるわずかな時間さえも惜しかった。階段を上りきり、1番奥にある教室へ向かう。一年の階なんて久しぶりにきた。
少しあがった息を整え、深呼吸をして扉に手をかける。意を決して開けば窓際に月明かりに照らされた彼女が目に入った。机に伏せているところを見るかぎり寝ているのだろう。寝ていることに安堵の息をはき、大きく脈打ちだす心臓を必死に抑えながらゆっくりと近づく。もし寝ていなかったら俺の心臓は破裂していただろう。
くうくうと寝息をたてる彼女。少し開いた口に体の中心から熱くなる。唇が柔らかそうとか、睫毛が長いとか思っていないと頭の中で言い訳をしてみるが、熱はひかない。むしろ墓穴を掘ってしまったようで、顔が一気に茹であげられたかのように赤くなるのを感じた。先程黄瀬が妹に手をだしたらいくら俺でもキレると言っていたが、自分は手を出せるようなプレイボーイではないと思い知らされる。

「お、い」

1メートルほど離れたところから彼女をよぶ。こんなにも距離を開けないと話し掛けられない自分が情けない。へたれているにも程がある。そう思いながら俺はあることに気づく。もしかして今俺は初めて自分から彼女に話し掛けたのではないかと。あくまで寝ているやつに呼びかけただけだからカウントされるかは分からないが。俺の呼びかけが聞こえないと言うかのように気持ち良さそうに寝る彼女。ほんの少しだけ、距離を縮めてみる。彼女と俺には1メートル弱の空気の壁。それや自分の心情やら気恥ずかしさが頭の中でこんがらがる。そしてこの見えない隔たりがもどかしくって仕方がなくなる。ここで近づけなかったら男じゃねえ、そう思って一気に近づいてみる。隔たりは15cmにも満たらない。思いっきりすぎたと後悔しながらも、うるさいくらいに音をたてる心臓に俺は頭を抱えそうになる。目に留まるのは薄い桃色の頬や息をする度にふるえる睫毛、そして艶やかな唇。なんとも言えない感情が押し寄せる。この心臓が鷲掴まれるようなこの感覚を俺はここ最近何度も味わっていた。彼女が毎朝挨拶をする度に、彼女がバスケ部の練習や試合を見に来る度に、彼女を何気なく目で追う度に俺は自分の気持ちを知らしめられるのだ。

「黄瀬、」

口に慣れたその名前を呼ぶのにこんなにも緊張したのは初めてだ。しかしそんな俺の緊張も空気を震わせるだけで何にもならない。彼女には俺の声が届かないのか。
するり、彼女の頬を一撫でする。温かい、柔らかい、そんな単語が頭の中を巡る。初めて彼女に触った。早い鼓動なんて無視して俺はさらに触れる。ぷにぷにとした肌で遊ぶ。頬を滑るように指を這わすと睫毛にあたる。その感触に引かれた俺が何度も睫毛を人差し指でつついていると、くぐもった声。バッと彼女から手を離すと、ゆっくり開かれる瞼。開かれた目にうつる俺はどんな表情をしているのだろうか。

「か、さまつ先輩…?」
「ああ」

寝起きで虚ろな目の彼女にそうだと肯定の意を示すと彼女は数回瞬きした後、勢いよく起き上がった。忙しなく口をぱくぱくさせる彼女にやっと起きたなと言えば固まってしまう。

「おい」
「……」
「鞄を持て」
「…え、あ」
「帰るぞ」
「は、はい…!」

彼女に背をむけ、教室のドアの方へ足を踏み出す。そんな俺に彼女は焦ったような声をだしながら急いで机の横にかけていた鞄を取る。教室を出ると後ろからパタパタとリズム感のない上履きの音。コケそうだと思い足を止め振り返れば、軽い衝撃。急に止まらないで下さいよと額を押さえながら話す彼女に俺は固まってしまう。固まった俺を見た彼女はハッとしたように距離をとる。すいません、小さく口を動かす彼女にチクリと胸が痛む。俺が女子を苦手としていることを彼女は知っている。だから彼女は俺との最低限の距離を保つ。そうなる原因は自分にあるのに悲しくなるのは何故か。そんなこと知らないわけがない。

「おい」
「う、わ」

彼女の手首を掴み、距離を狭める。下唇を噛んで俺を凝視する彼女に、暗いから足元気をつけろと言って歩きだす。彼女はパタパタと頼りなくついて来る。俺が引っ張るようにして歩くために彼女がコケてしまうのではないかとか、歩幅が違うからゆっくり歩かなければいけないのではないかなんて考える余裕はその時の俺に存在しえなかった。


いつの間にか校門まで来ていた。ハッと我にかえり、後ろを見れば彼女は俯いている。悪い方向にしかベクトルがむかない。泣いてはいないが、こうなったのは俺に原因があるのは間違いない。手首をつかむ力を緩めると、彼女はゆっくりと顔をあげた。ドクリ、心臓が大きく揺れる。俺を見上げる彼女の顔はひどく官能的だった。頭から湯気がでそうなくらいに体が熱い。
夜風になびく髪の毛、街灯に照らされ光りをもつ瞳、赤く染め上げられた頬、そして何か言いたげにわずかに開いた唇も彼女の全てが俺を魅了する。先輩、俺を呼ぶ彼女に少し遅れて反応すると彼女はふわりと笑った。

「先輩、笠松先輩!」

彼女は嬉しそうに何度も俺を呼ぶ。いつもの、いやすこし前までの彼女だ。飼い主を見上げる犬のように俺に上目遣いをかます彼女に、ついに俺の顔から火がでそうになる。

「先輩、途中まで一緒に帰りましょう」

熱で倒れそうな俺なんて露知らず、彼女は俺の手を握り歩きだす。途中までって、こんな時間に女子が一人で帰るとか危なすぎだろ。変なやつがいたらどうするんだよ。そう思い、家まで送ると言えば彼女は照れたように笑いながらよろしくお願いしますと口にした。
握られた手を握りかえすと俺の顔を見る彼女。そんなに嬉しそうな顔すんなよ。勘違いされるぞ。……まあもうすでに勘違いしてるけどな。心の中でつぶやいたそれはゆるりと溶けて消えていく。
好き、だ。ずっと胸に宿っていた気持ちに俺はやっと気づいた。街灯と月に照らされた俺達の後ろにはうっすらと影が作られる。頭一個分くらい大きさの違う影に、これがずっと続けばいいのにと思った。


黄瀬名前と笠松幸男

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