あの時の、声も涙も愛も叫びも憧憬も全て全て君にあげられたならと思う。
君は何も知らないから。
私が消えた日。
君の見知らぬ時と場所で私が居なくなったこと。

ぽたぽた、ぽたりと柔らかい音で私は目を覚ます。
私が初めて身を起こした時は、その優しい響きが涙の落ちる音だと思いもしなかった。
ゆっくり目を開いて身体を持ち上げると、しんとした自室の隅で男の子が泣いている。
私が目を覚ます時、眠りに落ちる時、彼の嗚咽はいつでも誰かを待ち望んでいた。
その誰かになれたような気分でいる自分はきっとこの世で最も愚かしいと自嘲する。
馬鹿だなぁ、私は彼に届ける声も差し出す手も持っていないというのに。

大きな身体を無理に小さくしてうずくまる彼は子供のようで、不格好だ。
けれども、何度その姿を見ても彼に抱く感情は柔らかい形を保ったまま、私の指先を彼へと向ける。
彼が泣くと、安心する。
こんな考え方はいけないと思いつつも、一人では居られない彼を愛しく思うのだ。
自分のような者が彼に触れられるのかは分からない。
触れようと思う度、扉が開いては彼の家族や友人らしき人々が彼に話し掛ける。
涙がはらはら落ちる表情のまま、彼は顔をゆっくり持ち上げる。
その度に彼と誰かの中間位置にある私は、綺麗に澄んだ瞳に見惚れると共に彼には私が視えていないのだと、思い知った。
掛けられた声に応じたり、立ち上がって部屋を出たりと彼の行動は時によって様々だった。
ただ、彼が私をすり抜けて扉を閉める度、悲しかった。
私では彼の腕を掴むことができない。
引き留めることは叶わない。
私がこの部屋に縛られているのとは正反対だった。

あの日、私はまた涙が降る音で目を覚ました。
優しく揺り起こされるような感覚が私は好きだった。
その音を生み出している彼は悲しみに満ち満ちているというのに。
床に顔の側面をつけたまま、涙の跡を目で辿る。
彼はやはり、小さくうずくまって悲痛に喉を引きつらせ、泣いていた。
涙の音が優しいように、彼が持つ音は全て優しいのではないかと思う。
たとえ嗚咽に震えていても、彼の声はさざ波のように柔らかい。
ぐるりと首を巡らせると彼と反対の隅にあるグランドピアノに目が留まった。
きっと彼の弾く音は素晴らしいだろうけど、残念なことに私は耳にしたことがない。
弾いてほしい。
彼の音はこんな私でさえ優しく慰めてくれるのだから、他に嫌う人が居るはずはない。
私の願いはどうしたって彼には届かないようで、部屋にはすすり泣く声だけが広がっていく。

いつものような、焦がれるような感覚とはまた違う思いで立ち上がる。
彼に触れてみたかった。
不思議といつだか彼をすり抜けた時の、悲しみや不安はなかった。
漠然と、今なら届くような気がして彼へと歩み寄る。
私が歩こうが叫ぼうが音は生まれないから、彼が私に気付くことはない。
優しい音色で溢れた彼は私よりずっと尊い。
それを彼にも知ってほしかった。
君に届けられるような優しさも声も持ってはいないけれど、好きなんだよと。
屈むと、いつもより近い場所に柔らかそうな髪と絶えず震える肩がある。
そっと指を伸ばした先、彼がゆっくり顔を上げた。
今日はまだ部屋の扉は開いていない。
それを考える余裕もなく、彼の頬に手を当ててみる。
彼の感触は分からないけれど、指先を伝った涙は一瞬だけ熱くて、冷たくなりながら手の甲を滑り落ちていった。
流れる最中で途切れた涙を不思議に思ったのか、彼が私の居る方へ探すような視線を向けた。
それが私を捕らえていないことは分かっていた。
分かっていながらも、私は無意識に彼の名前を呟いた。
扉の向こうの人々が何度も口にしていた彼の名は、まるで昔から知っていた言葉のように私に染み付いていたけれど、今になって確信めいた何かが広がる。
私は彼の名前を既に、この部屋で目を覚ます前から知っている。


「   」


彼が何かを口にした。
確かに聞こえたのに聞こえなかった響きが、私の胸をじんじんと熱く揺さぶる。
私の耳にはもう音として届かないそれは、きっと、私の名前だ。
自分にないはずの涙が落ちて、彼の手のひらがそれを掬った。

(君が居なくなったから泣いていたんだよ、)


20100529
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