景吾は昔から景吾だったので、小さいころはつられるようにして負けん気が強い女の子に育った。
くだらないことでよく言い合いをして、本当に幼いころは景吾に泣かされたことも、逆に景吾を泣かせたこともあった。
本人からするとその過去は人生の汚点に値するらしく、話題に出すと決まってしかめっ面をした。
それがなんとなく楽しくて何度も話していたら、記憶と同じくちょっとした痛みが頭にお見舞いされたので、それきり昔の話はしていない。
景吾はいつだって「今」を大事にする生き方をしていたし、この話題は裏を返せば私の人生の汚点でもあることに気づいたからだ。
今では、景吾に泣かされた事実など癪に触ってしょうがない。
彼の気位の高さは私にもしっかり伝播していて、けれども景吾ほど強くもいられない私はよく過去にも未来にも左右された。
そうして時に落ち込む私を景吾は微妙な表情をして見ることがほとんどだったが、彼が愛想を尽かすこともなく、半ば無理やりに私を暗い自室から連れ出してくれるので、その無遠慮さには密かに感謝することが多かった。
私を連れ出す手のひらがやけに熱かったのをよく覚えている。
強気に私を笑い飛ばす景吾の声は時に震えているようで、小さいころは彼なりに迷いもあったのだろうと、今になってみれば察しがつく。
そんなことを思っている間に、景吾はどんどん大人びた性格に成長していった。
どんな分野でも他の追随を許さず、常に自信に満ちた風格を身にまとう姿は、少年より青年に近づき始めていた。
まだ中学生だというのに。

「景吾、これは何だろう」

「お前な、もうガキじゃねえんだ。変なもの拾うなよ」

景吾が遠征で行った神奈川についていったとき、海辺で古ぼけた一冊のノートを見つけた。
物好きと言いたげな視線を向けられたものの、彼と久しぶりに(テニスのついでとはいえ)遠出できたことに浮かれていたのも手伝って、景吾は意外と慎重で臆病だからなんて心の中で言い聞かせてそれを手に取った。
見透かされていたのか、小突くように肩をぶつけてきた彼も一緒になって覗きこむ。

「ノート?」

「誰のものかな、何か書いてあるみたい」

「普通は水場にノートなんて持ってこねえよ」

それもそうだ、と思いながらも場違いであるその存在への興味は尽きず、力を入れてしまえば破れそうなページをそっと開く。
少し呼吸を、止めた。
驚いたのは景吾も同じだったらしい。
けれど、彼のほうはすぐに常の達観した表情に戻ってしまった。
きっと信じる気がないのだ。

「ねえ、この日付は未来のものだね」

「どこかの誰かが書いたものなんだから、好き勝手に書けて当然だろ」

「これっていわゆる予言書ってやつなんじゃないの」

「こんなもの信じるのかよ」

またあのしかめっ面だ。
景吾はむしろ私のほうを信じられないと言いたげに表情を歪めた。
このようなノートを、物語の中で見たことがある。
どんな方法を使っているのか、未来のことを予測し先読みする予言書というもの。
そんなものは有り得ないはずだけれど、私が開いたページには確かに自分に関する事柄が書かれていて、少し読み進めれば景吾についての記述も見つけられた。
その内容には私や彼しか知らないような人物の名前があって、きっと書かれた未来は有り得なくもないのだ。
私たちがこれからどんなことに出会うのか、どんな人とかかわっていくのか、それすら克明に書かれていた。

「まるっきり信じるわけじゃないけれど、これはすごいと思うよ」

私に言葉を返すわけでもなく、景吾は不満そうにふんと鼻で笑った。
それきり踵を返して、ざくざくと砂浜に足跡をつけて私から離れていってしまう。
そんな姿を見て、ぼんやりと思った。
ああ、やはり景吾は私とは違う。
信じるものは自分という存在だけで、彼にどれだけ近付いた人物であっても孤高な内側に触れることは許されない。
待ってよ。
私は声を上げて景吾を追いかけた。

「そんな下らないものにしがみついてるくらいなら、置いてっちまうからな」

その時、景吾は確かに忠告をしたのだ。
私は頷くふりをして、片手に抱えたノートを離さなかった。
それを見逃したはずもないだろうけれど、景吾は呆れたように私が来るのを待っていた。
砂浜に残った足跡は二人分、長く長く並んでいた光景がやけに鮮明に記憶へ焼き付いている。


▽△


それから、すっかり生活が変わった。
何か未来に不安なことがあると古びたノートをめくった。
不思議なことに、私が抱える質問に答えるようにノートに書かれた出来事はめくる度に増えていた。
明日の天気はどうなるの。
あの先生はいつ結婚するのか。
次に生徒会長になるのは誰。
すべての答えが書いてあった。
そして、本当にその通りになった。
興奮した私は景吾にノートを見せに行った。
話の始まりから景吾の表情は曇りがちで、人がこんなに嬉々として報告しているのだから何とか言ってよ、と私は怒った。
彼にもすごいと言ってほしかったのだ。
ノートを一瞥もせず、碧い瞳で私の表情を深く覗き込んで景吾は言った。

「未来がわかるなんて、ろくなことがないぞ」

彼はまたも忠告をした。
けれど、私はそのことに気付かなかった。
代わりにひどく憤慨して、景吾の部屋を飛び出した。
長い付き合いだったけれど、もうここには来ない。
そう決意をして家へ走り帰った。


▽△


景吾の言ったことは本当になった。
ノートは必ずしも良い未来ばかりを教えてくれるわけではなかった。
最初は美術の成績だった。
入学してから最高評価しかもらったことのない得意科目であるのに、初めて成績が下がるとノートは予言した。
それからは、悪い未来も良い未来と等しく現実になった。
数学の授業で当てられて、小さな計算ミスで恥をかくこと。
普段は仲の良い犬に吠えられること。
友人との些細な諍い。
私の好きな男の子には、他に好きな女の子がいること。
私はすっかりノートを信頼していた。疑うこともしなかった。
心の拠り所であり、失うわけにはいかないと思っていた。
他人の言葉よりもノートに書かれた文字の方を信じた。
どうせ現実になるのだから、これこそが揺るぎない真実なのだから、と。
未来を知っているというのは便利だった。
覚悟が出来ていれば、良い出来事を心の底から喜べて、悪い出来事にそれほど傷つかずに済む。
楽だった。驚くほど人生が楽だった。
その思いが打ち砕かれたのは、中学三年生に上がった頃。
ノートには、私が第一志望の高校に落ちると書かれていた。
目を疑った。何度もノート上の文字を読み返したけれど、内容は一字一句変わらなかった。
氷帝学園にはエスカレーター式の進級制度がある。
もともと学園が格式高いこともあって、私のように外部受験をしようとする生徒は少ない。
勉強は出来る方だった。やりたいことが出来る高校も見つけていた。
けれど、叶わないと言われた。
悲しい感情が湧き上がるより先に、諦めがついて良かったと思ってしまった。
私が外部受験をすることはすでに公言していたので、両親も教師も期待をして応援の言葉をかけてくれた。
誰の言葉も心に響かなかった。
学校から家に帰ってくると、勉強をすると言って自室に籠もり、いくらでも眠った。
眠くなくても布団にくるまってじっとしていた。
叶わないなら、どうでもいい。
早い段階で無理だと気付けて良かった。
ベッドの上でパラパラとノートを繰る。
もともと色褪せて古ぼけたノートだったが、私が使い込むことによりますます薄汚れて年季が入っていた。
最新のページに、こんな文章があった。
景吾がうちに来る。
何のために?そう首を傾げたけれど、親の使いか何かだと思って気にしなかった。
しばらく眠ろう、と目を閉じた時だった。
自室の扉が勢いよく開き、驚いた私はとっさにノートを抱えて飛び起きた。
部屋に入ってきたのは景吾だった。
例の喧嘩以来顔を合わせておらず、何の用かと戸惑う私をじろりと睨みつけ、景吾は眉間を寄せた。

「…勉強中だと聞いたんだがな」

少し軽蔑の混じった口調に弁解をしたくなった。
そうだ、景吾はこの予言書のことを知っている。
私の諦めについて納得してくれる。
そんな期待が浮かんだ。
私が何か言うより先に、ノートに視線をやった景吾が忌々しげに呟いた。

「やっぱりまだ捨ててなかったか」

距離を詰めた景吾にノートを奪われ、それを乱暴に扱わないでと怒った。
彼は聞く耳持たずといった様子でノートを開き、数ページに目を通した。
そしてゆっくり息を吐き出すと、私の腕を掴んで強く引いた。

「なに、痛いよ」

「いいから来い。外に出るんだ」

その言葉は、幼い時分に塞ぎ込んで閉じこもる私を連れ出した、かつての景吾を思い出させた。
記憶が頭の中で駆け抜けたような懐かしさに、一瞬思考が止まる。
その間にも、景吾は私を部屋から追い出そうとする。

「一体どこに行くの」

「あの海岸だ。このノートを捨てに行く」

頭がかっとして、反論しようとした。
私にとっての道しるべのようなものを捨てると言ったのだ、この男は。
しかしノートを机に叩きつけた景吾によって、言葉が遮られた。

「諦めてんじゃねえよ」

「だって、駄目だって、無理なんだって分かったから」

「書いてある未来を鵜呑みにして決めつけて、お前はいつからそんな簡単な人間になったんだ」

少なくとも、昔はそうじゃなかった。
景吾の言葉と瞳に、怯んだ。
本当に一瞬だけ浮かんだ切なそうな表情が焼き付いて離れないのに、目の前には怒りを露わにした景吾がいる。

「お前は、そんな人間じゃなかった」

「私は何も変わってないよ。変わったのは景吾の方じゃない。勝手に一人で強くなって。小さい頃は私に泣かされたくせに」

「変わってないから駄目なんだ。それは成長していないってことだろ。俺が変わったなら、お前がついて来ればいいだけの話だ」

何を言っているんだ、と思った。
私は変わることなんて望んでいない。
傷付くくらいなら閉じこもっている方が、と思いかけてはっとした。
私はいつから、こんなに臆病な考え方をするようになったんだろう。
私は景吾につられて負けん気が強くて、こんな風に彼が私を説教するようなことがあればもっと真剣に否定して反論していた。
不意に浮かんできた戸惑いに、急速な焦りを感じた。
そんな私の内心に気付いてか、景吾は薄く笑った。
酷薄な印象はなく、親か兄のように優しげだった。

「昔のお前が見たら、今のお前を笑うだろうな」

言葉が返せない。
悔しいことに否定できなかった。
私にはまだ、悔しいという感情があった。
自覚した途端、安堵と悔しさで涙が滲む。
よりによって景吾に気付かされるなんて。
誰よりも寄りかかりたくない相手に慰められてしまうなんて、屈辱だ。

「やっと人間らしい顔に戻ってきたか」

「なに、言ってんのよ」

「近頃のお前は薄気味悪かったからな。何に対しても諦めたような顔しやがって」

首を振った景吾が、ノートを拾い上げて揺らす。
不思議と、取り返そうという気は失せていた。
痛いほどの視線でこちらを睨みつけ、景吾は尚も私を叱咤する。

「いいか。お前の未来はこれに縛られない」

一言一言が耳鳴りのように響く。
景吾の言葉は静かな調子で私を揺さぶった。

「お前の人生だ。未来なんて、自分でいくらでも変えてみせろ」

あの景吾が言っているのだ。
他の誰よりも説得力があった。
景吾が私の手首を握る手のひらは熱く、昔と少しも変わっていない。
その熱が目頭にもじわりと移って、流したくもない涙がこぼれるのを、景吾は碧い瞳で見ていた。
何もかもを見透かす、私の好きな色の瞳で。

20131004
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