ぐちゃり。 綺麗な真珠のようで冷たい質感をしていたそれは、私の手のひらからすべり落ちると果実のように潰れた。 もう決して元の球状には戻らない、その有り様を見下ろして馬鹿みたいに口を開ける。 少し先を歩いていた財前が私の異変に気付き、こちらへ戻ってきた。 「あーあー、何やっとるんすかアンタは」とお菓子をこぼした子供に言うみたいに声をかけてくる。 「ごめ、ごめん財前」 「は?」 「…大事なもの、落とした」 震える声で言葉をつむぐ私の顔は血の気がないに違いない。 じっと私を見つめてから手を握ってきた財前の体温は少し熱いくらいで、強張った指先がほぐれるような気がした。 はあ、と息を吐かれたから肩をすくめたものの、私を責め立てる言葉は一向に降ってこない。 私の指を一本一本、確かめるように撫でながら財前は小さく言った。 「怪我してないっすか」 ぱりん。 ぐちゃぐちゃに潰れていたものが一瞬で硬質な破片へ変じて、キラキラした欠片がいくつも辺りを舞った。 ピリッとした痛みに目をやれば、手の甲からたらたらと血が流れている。 飛んできた破片で切ったのだろう。 当然だ。私はそれだけ重大なことをしでかした。 うつむいた顔を上げられないでいると、もう一つため息を落とした財前が制服のポケットを探る。 やがて出てきた小さな包帯をくるくるとほどきながら、いたって平静に財前は言う。 「アホ部長の残りもんやけど、無いよりはマシやろ。ほら手、出し」 うじうじしていると、もどかしそうに腕を引っ張られた。 時間を掛けて丁寧に手当てをする財前を見つめていたら、なんだか涙が出てきて止まらなかった。 彼は、こんなに優しく包帯を巻くことができたのか。 また一つ、新しく知った事実は嬉しいはずなのに、嗚咽まで出てくる。 「…濡れるんすけど」 「う、うえっ」 「アンタ、ほんまに手のかかる先輩やなぁ」 手当てのために身をかがめていた財前は顔を上げた。 包帯を巻かれた分だけ重たくなった手のひらを両手で包んで、彼は呆れたという表情をした。 私が一番、よく目にした財前の表情。 けれどこの顔をしているとき、声だけはとても優しいのを知っている。 「鼻水落とさんといてくださいよ」 「落としてない、しっ」 「こんくらいの傷で済んで良かったっすわ。本当は怪我しないのが一番やけど…ま、次からは気ぃ付けや」 今さっき、私が「次」を潰したばかりだというのに。 頭をぽんぽんと撫でてくる手に、涙がころりと落ちていった。 困ったといいたげに表情を歪めた財前は指先で私の目尻をぬぐった。 ぼやけていた不明瞭な視界が、はっきりしてくる。 いつも通りかっこよくて無愛想な財前が目の前にいた。 違うのは、いつもみたく意地悪を言ってこないことだけだ。 それだけのことが、どうしようもなく寂しい。 まるで私たちの行く末を見計らっているようで。 「ね、先輩。笑うた顔見せてくださいよ。調子狂うっすわ」 「…ごめんね、財前」 「人の話聞けや。笑えっちゅうとんねん」 「うぐ」 頬を両手で挟まれて、無理やりに上向きにされる。 果たしてどれくらいの人が笑えと言われて自然な笑顔を作れるんだろうか。 せめてもの抵抗として目を固くつむっていると、まぶたに柔らかいものがくっつけられて、離れる。 何をされたかはすぐにわかったので、ゆっくりゆっくり時間をかけて目を開けた。 何でもないような顔をした財前が立っている。 「すけべ」 「うっさいわ泣き虫」 「キザ野郎」 「アンタに優しくできんのも今のうちやからな」 その言葉にぐっと胸が詰まった。 涙こそ止まったものの、この状況が改善された訳ではない。 何か言いたいのに言葉が出てこない私をよそに、財前はしゃがみこんで先ほどの破片を拾い上げていた。 半透明で薄い白色のそれは光に透けて、財前の指先で輝いている。 「砕けてしまっても綺麗やろ」 それを手のひらでぐっと握りこむと、パキンと軽い音がした。 あわてて財前の手をつかんで見たが、血が出ることもなく細かい結晶がサラサラとこぼれるだけだった。 安心して息をつくと、腕を引かれて財前の胸へ倒れ込んだ。 抱きしめられる心地は愛おしくて切なかったけれど、もう涙は出なかった。 「本当なら、オレらを傷付けるものじゃないんすわ」 「…うん」 「アンタが壊さなくても、いずれ壊れてたから気にすんなや」 「ひどいこと言うなぁ」 「そのひどい奴と付き合うてたん、誰?」 最後の最後で意地の悪いことを言われて、自然と笑みが浮かんだ。 財前もほっとしたようで、触れた距離の近さはそのままに、温かい心地だけがすうっと離れていく気がした。 そうやって笑う顔が、大好きだった。 珍しく泣きそうな瞳は指摘しないでおく。 「ほな、元気でな」 「財前もね」 次に目を開けたとき、きっと世界は終わっているんだろう。 20130213 |