目の冴えたような心持ちで授業の終わりを告げる鐘を聞くのは久しぶり、いや初めてかもしれない。 そんなことを口にしてしまえば、この教科書を借りた彼にやんわりと窘められてしまうだろうか。 もっと真面目に授業に取り組めと。 暇だと感じるとすぐに眠たくなってしまう私は居眠りの常習犯で、彼は「そんなテニスプレイヤーが氷帝に居たな」と言っていたけれど、よく分からない。 私にとっての彼はテニス部の誰か、なんて定義ではなくて、いつだって私を諭しいい方向へ導いてくれる兄のような恋人だ。 とはいえ、年は一つも変わらない。 私と彼は同級生だけれど、その知識やら能力やら、同じ程度の人間とは到底思えなかった。 物思いに耽っていた私の視界にちらり、突如鮮やかな赤毛が映り込む。 「おい、ぼーっとしてると昼休み終わっちまうぜ」 「大方、愛しの参謀のことでも考えてたんじゃないかのう」 「はあ?こいつが?まさか!あり得ねーだろぃ」 私が口を挟む隙もなく同クラスの赤毛と銀髪はやいのやいのと騒いでいる。 本人たちは否定するけれど、何だかんだ仲良しじゃない。 口を揃えて違うと言われそうなものだから、言葉にはしないでおいた。 紙パックジュースのストローを所在なさげに噛む仁王と、蓄えにでもするかと思うくらい弁当をかきこむ丸井と。 今回は前者に賛成だ。 「うん、蓮二のこと考えてた」 「ほーら、の」 「げ…珍しいとか、そういう問題じゃないぜ。いっつも淡白で何にも興味なさそうな顔してんのによ」 「二人は付き合っとるきに、そんな驚くほどでも。なぁ?」 「柳はともかく、あいつら普通の付き合いじゃない…って、話の途中で行っちまったし」 丸井の声を背に受けながら、教室を出た。 片手には柳蓮二と流麗な字で名の書かれた教科書を持って。 一緒に登下校もしない。 自ら会おうと時間を作らない。 それだけで、変な付き合いだと噂されてしまうのは正直納得が行かない。 確認をしたことはないけれど、私は私で、蓮二は蓮二で会いたい時には相手を探すのにね。 今そうしているように。 彼の教室を目指し歩いていると、すらりと背が高く姿勢のいい後ろ姿を見つけた。 誰かと間違えるはずもない。 「蓮二、」 「…ああ、どうした?」 「あのさ」 「猫背だな」 とん、と軽く肩のあたりを指先で押され、反射的にぴしりと背筋を伸ばす。 急に筋肉を伸ばしたせいで身体の節々に違和感があるけれど、蓮二が「その方が、綺麗だろう」と笑うから仕方ない。 いつだって私より蓮二の方が正しいのだから。 「それで、何か用か」 「教科書借りてたから。でもなんだか、それだけじゃなくて。授業聞いてたらだんだん目が冴えてきて、蓮二のことを思い出して、会いたくなったから来たの」 ふむ、と小さく唸った蓮二が私の手から国語、それも漢文分野の教科書を受け取った。 その表情から訝しさを読み取るよりも早く、彼の口が緩く弧を描いた。 「これは勘だが」 「うん?」 「今の授業で白居易の長恨歌を扱っているだろう。違うか?」 「そう…だったかもしれない」 「相変わらず不真面目なようだな」 仁王か丸井に監視を頼むべきか、なんて笑いながら蓮二の指先はページを繰る。 あの二人では頼りにならないことくらい分かりきっているだろうに。 ぱらぱらと揺れていた紙が止まり、蓮二はある箇所を指した。 「ここだな。『太液芙蓉未央柳』」 「…どういう意味?」 「太液池の芙蓉も未央宮の柳も変わりない、そう書いてある。ここは漢の武帝が李夫人を喪って嘆く場面だな。芙蓉は蓮の美称だから、先生もその話をしたんだろう」 「じゃあ私は、蓮二の名前を見て無意識に会いたくなったってこと?」 「そうなるな」 思わず見やれば、落ち着いた様子の蓮二と顔を見合わせる形になった。 かといって気恥ずかしさが生まれるでもなく、私は彼の隣で教科書の文字をなぞる。 確か、私が強く覚えていた部分は他にもあったはず。 「…これ」 「芙蓉帳暖度春宵、か」 「蓮の花の縫い取りがされた帳と聞いて、それはもう綺麗なんだろうなって」 私が語る傍ら、蓮二はどことなく楽しそうだ。 まるで子供の成長を見守る親のような。 ちらりとその横顔を見やると、大きな手が頭に載せられて何度か揺り動かされた。 随分と優しい撫で方だ。 「興味が出てきたか?」 「まあ、たまたま蓮二の名前があったからだけど…」 「一つ、有名な漢文を教えてやろう。だからもう少し勉学に励め、いろいろな意味でな」 「うん…?」 「『与君一夕語、勝読十年書。』」 「全然分からないよ」 「そうだな、特にお前の場合ならどれだけ掛かるか…気長に待つとするか」 「だから、意味が分からないって」 私が少しむきになると、蓮二はふっと零すように笑った。 そこに揶揄や嫌みは含まれていない。 期待されているのだと、そう思った。 「知っているか?俺は無知よりは賢い人柄の方を好む」 「私じゃ蓮二には釣り合わない?」 「そうは言わない。ただ、いつまでも待つと約束しよう」 優しい言葉を最後に、蓮二はもう一度私を軽く撫でて教室へ戻ってしまった。 あれから意味を調べて、私が前よりも本を読んで、少々勉学に励むようになったのを、蓮二はどこか嬉しそうにしている。 (君と一晩語り明かせば、十年分の読書にまさる。) つまりはそういう仲でありたいと、無邪気に私へ願った彼はほんの少しずるいと思う。 だって逃げようがないじゃない。 20111220 |