海に行こうか、と幸村くんが言った。 これは別に珍しい台詞ではなくて、幸村くんは日課のように海に向かうし、彼について行く私にとっても海は見慣れた友人のようなものだ。 海に行って私たちがすることといえば、指先を海水に浸してみたり砂山を作ってみたりと、そのほとんどには意味がない。 それでも幸村くんは思い出したように海に行こうか、と呟く。 先を歩く幸村くんの背中を見つめては度々彼が海に行く理由を考えるけれど、いつも答えが出る前に潮風の匂いがしてくる。 それほど海は立海のすぐ近くにあった。 今日も波の音は変わらず響いていて、なんだか海に呼ばれているような気になる。 けれど、きっとそれは人間の勝手な思い込みで、海は私たちを受け入れも拒絶もしない。 ただ目の前に横たわっているまま、何もしない。 「靴、脱がないの?」 私が控えめに波打ち際で遊んでいると決まって幸村くんが言う。 そうする、と呟いて私は革靴と靴下をアスファルトの上へ置きに行って、熱を吸った砂の上を裸足で戻ってくる。 鞄の中にはいつだって日焼け止めのクリームと大きめのタオルが入れてあって、私は幸村くんの言葉を待っているだけなんだな、と思う。 座り込んでいる幸村くんをちらりと見やると、ここに居るよって諭すように手を振られた。 そろりそろりと引いては寄す波に近付く。 プールの授業と同じで、こういう時は水に入るまでが長い。 爪先で曖昧に水を払っていると幸村くんが後ろで笑ったような気がした。 思い切ってざぶざぶとくるぶし辺りまで海に浸かって、一瞬だけ身震いする。 足の裏に貝殻や砂が当たって、吹きつける潮風が肌に痛い。 幸村くんを見ると、頬杖をついて砂を掬っては落としてまた掬うのを繰り返していた。 口を開こうとした途端に強い風が吹いて、私の言葉は声にならない。 顔を上げた幸村くんが首を傾げて、濡れないように気を付けながら波打ち際までやって来た。 「よくきこえないよ」 「だから、海、色がきれいって」 「ああ、ほんとだ」 近くで見ないと分からない濃紺の深みに幸村くんが頬を緩めた。 幸村くんは色彩を大事に大事にする人だ。 あんなに綺麗ではなかったけれど、海を見ていると彼の絵を思い出す。 目の覚めるような青。 スカイブルーという一つの単語に収めていいものか迷ってしまうほど、人を惹きつける絵だった。 凄いと感じているのに声が出せない、声に出せば賞賛が一気に陳腐なものへと変わるような空気を、その場に居た全員が感じていた。 「グランブルーという言葉があるんだよ」 いつだったか、海に向かう道のりを歩く時に幸村くんが教えてくれた。 海の青色は底に近付くにつれて深く濃い、美しい色になる。 外国ではそれを偉大なる青という意味を込めてそう呼ぶのだそうだ。 風に髪を揺らす幸村くんが子供のように笑うのを見て、彼はその色に辿り着きたいのだと知った。 深海の世界を想像する。 私たちがなぞる水面のずっとずっと奥深く、美しい青に満ちた無音の世界だ。 海は人を呼ばなくても、その世界は幸村くんを歓迎している気がした。 「お前さん、幸村と仲いいんか」 休み時間に、前の座席の仁王が振り向いて話し掛けてきた。 すると何故か丸井まで寄ってきて、一気に視界が派手になる。 海に二人で居たところを見かけたらしい仁王はあれこれ質問を投げかけてきた。 幸い彼らが持つのは純粋な好奇心のみのようで、居心地の悪くない空気に安堵する。 ただ、彼と私の間にある関係性は私自身にも分からなくて答えに迷っていると、見慣れた白い手がいとも簡単に私の肩を引き寄せた。 「幸村くん」 「悪いけど、この子借りていくね」 手を引いて歩き出す幸村くんに戸惑いを隠せない私はされるがままで、ふと違和感に気付く。 引っ張られる形ではあるものの、こんなに近くで並んでいられるのは初めてかもしれない。 横顔を覗き見ると、幸村くんは不思議な瞳の色をして、口元が小さく孤を描いていた。 校庭まで出たところで幸村くんが立ち止まる。 笑みが残った形のまま、幸村くんは口を開いた。 「海に行こうか」 20100610 |