朝から雨が降っていた。
テニスバッグを背負って傘を差すのは面倒臭い。
雨は嫌いだ。
あちこちが濡れて煩わしい。
嫌な天気だと思いつつ、垂れる滴に構わず閉じた傘を手に教室まで歩く。


「…………」


あいつが居ない。
俺はクラスで二番目に早く学校に着く。
あいつは毎朝一番早く学校に来る。
いつもの癖で名前の机に歩み寄る。
あいつがこの時間に居ないなんて珍しい。
遅刻か休みか、なんてぼんやり考えながら机に手をついた。
メールでもしてみようかと思った矢先、騒がしい足音と共に背後の扉が荒々しく開かれた。


「日吉!」

「……何だよ、鳳か」


あいつの席に近付いた数分前の自分を殴りたい。
どうしようもない羞恥心に苛まれながら机から手を離すと、鳳の表情がますます暗くなった気がした。


「名前ならまだ来てないぞ」

「…違うよ」

「じゃあ部活の用事か?」

「違うんだ、日吉」


クラスが違う鳳は普段そこそこ早く学校に着いては、俺達のクラスにやって来た。
俺と鳳と名前の三人で下らないことを話すのは朝と休み時間の恒例になりつつあった。
特に鳳と名前は仲が良くて、犬が二匹居るように見えていたことは言わないでおいた。
それこそ小型犬が吠えるように怒る名前が簡単に想像できたからだ。


「違う違うって、意味分かんねえぞ鳳」

「…日吉は本当に知らないんだね」

「は?」

「あのさ、名前は」


今更、違和感を感じた。
なんで名前は来ない。
鳳がこんなに朝早く来たのは初めてだ。
それでいて、こんなに暗い顔をして、お前は何を言う。
激しい頭痛がした。


「名前は、昨日の夕方に電車にはねられて…それで…」


ふらりと、本当に静かに線路に落ちたらしい。
事故だったのか誰かの悪意だったのか名前が自分から落ちたのか、それすら分からない。
人が溢れかえるホームから仰向けに、急行列車の前に落ちた名前。
唐突に起きたそれに、動ける人間は一人も居なかった。
助かるはずもなく、即死だったらしい。

ぼんやりと、まるで他人事のように聞いていた。
鳳が言葉の通じない人間に見えた。
何を言っているのか分からない。
分からない。


「……それで、葬式が」

「俺は行かない」


やけに強く響いた自分の声に俺が一番違和感を感じた。
今、喋ったのは誰だ?
明らかに狼狽える鳳の横をすり抜けて、俺は教室を出た。
ぐらぐら揺れる思考と視界に足を踏み外しそうになりながら、階段を上った。
今日の頭痛は随分性質が悪い。





黙って教室を出て行った日吉に掛ける言葉が見つからなくて、俺は自分のクラスでもないこの教室に立ちっぱなしだった。
日吉が酷い顔をしてた。
ぼんやりとしてたけど、話はちゃんと耳に入っていたらしい。
置いてある、本のページがぐしゃぐしゃになっていた。
さっきまで日吉の手にあったそれを出来るだけ整えて、机に入れておく。


「…名前、日吉がまた不機嫌になっちゃったよ」


自分でも馬鹿みたいだと思いながら、さっきの日吉のように机に触れる。
この席に居た女の子は、もう居ない。
日吉の後ろ姿を思い出す。
まるで片足をなくした不格好な人形みたいだった。
失礼な物言いかもしれないけど、本当にそう見えた。
ああ、名前がこの場に居たら怒って注意してくれるのに。


「俺じゃ無理なんだよ、名前」


日吉と名前は友達ではなかった、と思う。
あの二人の関係に名前はつけられない。
ずっと一緒だった。
日吉を慰めるのも諭すのも、全部名前の役目だった。
言葉にして言われたことはないけれど、日吉は俺と名前が特に仲良しだと思っていたらしい。
それは違うよ。
いつだって、互いに一番近い距離に居たのは日吉と名前じゃないか。
俺の手が届かないところにずっと居たのに、二人は気付かないままだった。
二人が好き合っていたのか、そもそも恋愛感情があったのか俺は知らない。
ただ、二人は一緒じゃないといけなかった。
それだけは分かる。
だから日吉があんなに頼りなく見えた。


「はは、」


ぽたぽたと机の上で跳ねた水滴を拭う。
俺だって信じたくないよ。
まだまだ時間はいくらでもあったのに。
出来ることなら戻ってきてほしいのに、無理矢理にでも連れ戻したいのに。
名前、何処に行っちゃったんだよ。


「俺にも日吉にも、挨拶くらいしてからにしてよ」


本当に馬鹿みたいだ。
死んだ人相手に、こんな滅茶苦茶なことを。
でも、この願いが叶っていたなら、きっと俺達は二人揃って手を伸ばしてた。





屋上に続く扉の前で立ち止まる。
外は相変わらずの土砂降りだ。
扉に寄りかかるようにして座り込むと薄暗い階段が目に入る。
鳳が言っていたことをずっと頭の中で反芻していた。
名前が死んだ。


「どうすんだよ…」


昨日、本を貸した。
まだ俺も読んでいないのに、返してもらってない。
扉一枚隔てた屋上ではよく三人で昼飯を食べた。
堅苦しい雰囲気だから避けていた食堂にもたまには行ってみるかという話をした。
名前は新作スイーツを食べたいとか何とか騒いでた。
どうせだから先輩や樺地も呼ぼうよ、と鳳が笑っていた。


「楽しみだね、日吉」


あいつも笑っていた、のに。
今は居ない。
居ない居ない居ない。
これからも変わらない。
嘘みたいな虚無感が俺に纏わりつく。
昨日までの日常がひたすら遠い。
重い鉄の塊の下敷きになる前、名前は何を思ったんだろうか。


「……っ、」


急な吐き気を覚えて、口元を押さえた。
涙が止まらなかった。
苦しい。痛い。哀しい。
このまま涸れてしまいたい。
拭っても拭っても溢れてくる涙が邪魔で仕方なかった。
立ち上がって扉を開くと、痛い程の雨音が耳を劈く。
何も考えず、外に出た。


「ひっでぇ雨…」


雨は全てを洗い流す、なんて嘘だと思った。
俺の中の黒い渦は消えるどころか増すばかりだ。
流れ出て、辺り一面が黒く染まるような錯覚に陥る。
頬を伝い落ちる涙が雨と混じって落ちる。
もう何もかもが嫌だった。


「名前…」


空を仰ぐと顔を打ちつける雨がより激しくなった。
本、返せよ。
珍しく本を読みたがるから先に貸したのに。
学食にも行くんだろ。
テニス部総出の昼食はうるさいに決まってるけど、きっとお前は喜ぶから。
散々雨に打たれた俺の口から出る言葉は「会いたい」の一つしかなかった。


追悼、君を想う



20091123
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