■同じチーム内の女主に片思いするナランチャ
オレは、靴の音が好きだ。
特に、空気の澄んだ冬の朝に響く、コツコツという軽い音が。
みんなが眠っている静かな街、そして冷えた世界の中で靴音が響くと、なんだか楽しくなってくる。
そして中でも、オレはナマエの靴音が一番好きだ。
ヒールのある、スラリとした靴。うるさくもない、静かすぎでもない、軽やかな音。そんな音が、オレは好きだった。
ナマエが奏でる靴音は、耳に心地よく響くから。
静かな時にその音を聞くと、世界をふたりじめしているような、そんな馬鹿みたいな気持ちになれるから。
オレがナマエのことを好きなことを、いつも思い出させてくれるから。
ある冬の日、太陽が出てきたばかりの頃、オレは仕事に出かけていた。
寒い中朝っぱらから起こされたけど、別に機嫌なんて悪くない。むしろ、良いくらいだ。
早朝から仕事なんてよくあることだし、慣れてるということもあるけど――最も大きな理由は、ナマエと一緒だからだ。
もちろん、ブチャラティからの「命令」は必ず守る。どんなことが起ころうが、任務は絶対に遂行する。いくらナマエと会えるからって、あんまり浮かれすぎたりしない。仕事は仕事、命令は命令だ。
それでも、ナマエの靴音を楽しみにすることは、悪いことじゃないだろ?
ナマエに会えることを楽しみにすることは、悪いことじゃないだろ?
オレは駆け足で、ナマエとの待ち合わせ場所に向かった。感覚の短い靴音が、コツコツと鳴った。
オレがその場所に着いたとき、ナマエは既にそこにいて、オレを待っててくれていた。オレを見た途端、ナマエの表情が明るくなる。
「おはよう、ナランチャ」
「おはよう、ナマエ。早いな」
白い息を吐き出しながら笑うナマエを見て、オレは思わずドキリとしてしまう。そんなことには気づかず、ナマエはただ笑ってオレに声をかけた。
「ちょっと早く目が覚めちゃって。ナランチャも早かったね」
「オレ、冬の朝好きだからな。つい」
半分ホントのことを言って、半分嘘を言った。冬の朝が好きなことに間違いはないけど、早く来てしまったのはナマエがいるからだ。
もちろん、それをナマエに言うつもりはないけど。ナマエは、オレが抱いている気持ちのことを知らない。オレがナマエのことを好きなことを、ナマエは知らないんだ。
「じゃあ、ちょっと早いけど行こっか。確か、ここから歩いてすぐだったもんね」
「そうだな」
ナマエがこう言うから、オレは歩き出した。それを確認したナマエも、オレの隣を歩き出す。コツコツ、コツコツと、朝の町に音が鳴り響いた。
オレの靴音と、ナマエの靴音が共鳴する。
周りに誰もいない冬の朝。この音を聞くだけで、世界にふたりきりでいるような気分になって――オレはなんだか、それだけで幸せだったんだ。
「ここか」
目的地に着いた時、オレは気を引き締めて呟いた。いくらナマエと一緒だからといっても、仕事は仕事だ。集中しなきゃな。
「えっと、確か……ここに、いるんだよね。『組織』に歯向かったチンピラっていうのが」
「ああ」
オレは頷いて、その家を見た。そして、ブチャラティから命令された今日の仕事内容を思い出す。
「確か……そのチンピラ、組織のエライ人を殺したんだったっけ? えっと、それでオレたちがそいつを懲らしめてくる、と」
「別に、偉い人ではなかったと思ったけど。上の人が殺されたんだったら、もっと信頼されているチームが仕事に回るんじゃない?」
「あ、そっかァ……」
自分の記憶力の悪さに反省する。ナマエにカッコ悪いところを見せてしまった。
と、またナマエのことを考えてしまっていることに気がつく。
集中だ、集中。今は仕事中だ。集中。
「まあ実際、最初はもっと上の人たちが仕事に回ったみたいだけどね。けど、返り討ちに遭ったみたい。だから、私たちがそのチンピラを連れてこいと。生死問わずにね」
ナマエは特にオレの間違いを気にしたりしないで、そのまま言葉を続けた。それはそれでちょっぴり凹んだのは、まあ内緒ってことで。
「仕事に回った上の人たちの腕は良かったけど、スタンド使いではなかった。そして、私たちに彼らが処理できなかった仕事が回ってきたということは……」
「……相手はスタンド使いかもしれない、っつーことか」
「そういうこと」
オレとナマエとの間に、緊張感が生まれた。相手はただのチンピラではない……オレたちのスタンドが見える、スタンド使いかもしれない。スタンドが見えない一般人を懲らしめるのとは、訳が違う……そいつには、オレたちの攻撃が確実に見える。それだけではなく、相手からも攻撃を受ける可能性がある――一般人の何倍もの力がある攻撃。実際、『組織』の上の人間は、それでやられたんだ。
ゴクリ、と唾を飲み込んだ。ナマエも同じように、なんだか緊張した顔をしている。
だけどナマエは、ふと笑って言ったんだ。それはあまりにも突然のことで、あまりにもオレの心を揺さぶる言葉だった。
「頼りにしてるからね、ナランチャ」
ドキ、と心臓が動いた。ナマエの笑顔が、どうしようもなく眩しかった。
「……ああ」
なんとか、そう答えるのに精いっぱいだった。好きな女の子にこんな風に頼りにされて、嬉しくない男なんてどこにもいない。
オレは、ふう、と息を吐いた。絶対にナマエにケガひとつ負わせたりなんてしない、とひっそり心に決めた。
「――行くぞ」
「うん」
オレ達はその家に乗り込んだ。建物は古く、鍵すらかかっていない。わざと音を立てて中に入ってみたけれど、それを咎める声はなかった。それどころか、人の気配がなさすぎて不気味なくらいだ。この寒い季節だっていうのに、暖房が入った様子もない。
「ナランチャ……『エアロスミス』のレーダーを見て」
「OK、ナマエ。『エアロスミス』ッ!」
ナマエも不気味に思ったらしく、オレに言う。オレは『エアロスミス』のレーダーを出して、それで見たことをありのままナマエに告げた。
「家の周りにはひとっこひとりいねえ……。だけど、家の中にはいるな――ひとり! 二階だッ!」
ナマエは、険しい顔で上を見上げた。上には何も見えないし、物音ひとつ聞こえない。
「オレたちが入ってくる音も聞こえただろうに、じっと動かないままだ……。気をつけろよ、ナマエ。妙なことをしてくるかもしれねえ」
「うん、わかってる」
オレは一旦、レーダーを引っ込めて辺りを自分の目で確認した。辺りは薄暗くて、埃っぽい。何が起こるかわからないような、嫌な予感がする。
「行くぞ」
オレたちは、なるべく素早く二階へと向かった。階段は狭く、ナマエと横に並んで歩くことはできない。オレが先、ナマエが後ろ、という状態で進み始めた。
コツコツという靴音が、ギシ、ギシという古い階段の音にかき消されて、少し不快だった。
「なんだあ? 誰もいないじゃあねーか」
二階についたも、誰もいなかった。部屋はここにしかない――だが、隠れることができる場所はいくらでもありそうだ。だけど、どこに隠れてやがるんだ? タンスの中か、それともクローゼットの中か。
オレは『エアロスミス』を出して、ヤツの居場所を探そうとした――その時。
「ナ、ナランチャ!」
ナマエに焦ったように呼びかけられた。なんだ、と後ろを振り向いた時――正直に言う。オレは、かなりゾッとした。
「ナマエ……?」
ナマエが、五人いた。
そしてナマエたちは、それぞれ違う表情で驚いていた。
「な、なんなんだこれ! なんで、なんでナマエが五人いるんだよォ――ッ!?」
オレは焦って、思わず叫んでしまう。だけど五人のナマエも、オレと同じように取り乱すだけだった。
「ほ、本物のナランチャはどれなの!?」「何が、何が起こってるの……?」「敵はどこ?」「どうしたらいいの?」「なに、これ……」
ナマエたちの言葉を聞いて、え、とオレは後ろを振り向く。だけど、オレの目には、オレ以外のナランチャ・ギルガは映っていない。だけど、ナマエの目には、複数のナランチャ・ギルガが映っているみたいだ。
と、いうことは、つまり。
「敵のスタンド能力――それは、幻覚を見せること……ってことか。オレにはナマエの、ナマエにはオレの幻覚を」
オレは呟いて、五人のナマエを見つめた。冷や汗が頬をつたったのが、はっきりわかった。
正直、どれが本物のナマエか、わかりようもない。確かに、全員がナマエといってもいいレベルだ。ナマエのことが好きなオレが言うんだから間違いない。
「ナマエ?」
オレは一応スタンドを出して、恐る恐る真ん中にいるナマエに触れてみた。警戒しながらナマエに触れなきゃいけないなんて、ちょっぴり悲しかった。
だけど、そんなことを言ってられないことになる――そのナマエはその時、嫌な笑みを浮かべた。
オレは確信した――こいつはナマエじゃない。ナマエはこんな、嫌な笑顔をしない。ナマエの笑顔はいつも、オレを幸せな気分にしてくれるんだから――
オレはその瞬間、吹っ飛ばされた。ナマエの笑顔が、どこかに吹き飛んでしまったような気がした。
偽物のナマエがオレを吹っ飛ばす力はかなり強かったけれど、致命傷にならなかったのは幸いだった。ナイフかなんかで刺されていたら、危うく死んでいたところだ。
「ぐッ……」
オレは床に叩きつけられた後、痛みで朦朧としながらも頭をなんとか回転させた。いや、本能で理解したと言った方がいいかもしれない。
――五人のナマエ。この中の一人は本物だろう。そしてそのうちの一人が、ヤツのスタンドの中心……今オレを吹っ飛ばしたヤツ……で、それ以外はきっと、ただの幻覚だ。ひとりのスタンド使いに、これだけの力を持つスタンドが何体もいてたまるか。
スタンドの中心を攻撃しなければ意味がない。何より、ナマエを間違って攻撃するなんてことは、絶対にあってらならない。
「ナランチャ、大丈夫!?」「ナランチャ」「ナランチャ!」「でも、あのナランチャは本物なの……?」「なんであのナランチャは吹っ飛ばされたの?」「…………」
五人のナマエはこっちを見ている。そのうち、三人くらいがいつの間にかスタンド――確かにナマエのスタンドだ――を出していた。だけど、誰もオレに向かっては攻撃をしてこない。
本物のナマエからしても、どれに対して攻撃すればいいのかわからないだろうし――オレだってそうだ。本物のナマエに攻撃なんてできるわけがない。
偽物だってきっと、オレが近づいてからじゃないと攻撃できないのだろう。本物のナマエがオレに攻撃しない限り、攻撃してしまうと偽物だということがバレるから。
「クソッ……」
どうすればいい? 何をすれば、ナマエをできるだけ傷つけずに、ナマエに化けるクソ野郎を倒せるんだ?
オレと五人のナマエは、しばらく動くことができなかった。ただ、『エアロスミス』だけがオレの周りを飛び回っていた。
「……エアロ、スミス」
そこで、ハッと気がついた。どうして、今まで気づかなかったんだ?
オレたちの任務は、あくまで『組織に逆らった野郎を懲らしめること』だ。どのナマエが偽物かなんて、偽物の中心はどれかなんて、『どうでもいい』。オレたちはただ、その野郎をやっつければいい、場合によっては殺せばいいだけなんだ。
レーダーを出して、本体の位置さえ探ればいい、本体さえ殺せれば偽物は全員消える。それでいい、それだけの話だったのに。
オレは、ナマエが五人になったということに気をとられすぎていた。どれが本物か、どれが偽物か。それを考えることだけに、集中してしまっていたんだ。きっと、ナマエも同じだったのだろう。
――クソ、してやられた。
オレは歯ぎしりしながら、レーダーで本体の位置を探した。自分の判断の鈍さに、ただ腹が立った。
「そこだッ! 攻撃しろ、『エアロスミス』ッ!」
オレのスタンドは、クローゼットを真っ先にぶち抜いた。クローゼットから、赤い血がどんどん吹き出てくる。そして、抵抗してもがく音と、悲鳴が聞こえてきた。
「行っけェ――――ッ!」
オレがさらに機銃を打ち込むと、野郎の断末魔が辺りに響いた。ビチャ、とオレの嫌いな生暖かい水の音も響いたけど、構わずに打ち続けた。
「ハア、ハア、ハア……」
撃ち終わると、やがてクローゼットの中は静かになった。そこで、オレは息を切らしながら後ろを振り向く。
ナマエは一人しかいなかった。
「ナランチャ……」
ナマエは心配そうにオレのことを見ているが、ナマエに怪我をした様子はない。ナマエのことを確認したオレは、ただ安心する。
一旦安心すると今更、吹っ飛ばされたときの痛みを思い出してきた。そして、限界まで『エアロスミス』の機銃をぶち込んでやったことも思い出す。体の疲れと心の疲れに襲われて、オレは思わず倒れてしまった。
命令、完了。今日の任務は終了した。
そして、ナマエも無事で、怪我はない。最初にナマエに頼りにされてよかったと、オレはただただホッとした。
「ええ。はい、ええ。ナランチャがやりました。今は休ませています……」
オレが目を覚ますと、ナマエは電話で仕事のことを報告していた。多分相手はブチャラティだろう。
起き上がると、なんだか首が痛かった。倒れたときそのままじゃなくて、一応ちゃんとした姿勢で寝かせてくれたみたいだけど。そもそも、ここは寝るにはあまり向いていなさそうだ。
と、そこで二つのことに気がついた。ひとつめは、いつの間にか身体の傷が手当されていたこと。ふたつめは、オレが着ていたものではない、ナマエの上着をかけられていたこと。この寒い家の中、ナマエは自分の上着を、ケガ人とはいえオレにかけてくれていた。
「……ナマエ」
どこまでオレは、ナマエのことを好きになっていけばいいんだろう。これ以上好きになることはないくらい好きになっても、オレはナマエのことをどんどん好きになっていく。
「はい。はい、わかりました。では、後日報告書を仕上げます。事後処理も後日ですね、わかりました……。はい。はい、では失礼します」
ナマエは、オレが目覚めたことに気づいたらしい。ブチャラティへの報告を切り上げて、オレにかけよった。
「……ナランチャ」
ナマエが心配そうに声をかけてきた。そんなナマエのことが愛しくて、オレは思わず笑った。痛みのことも、ナマエのことを見ていたら忘れられる気がした。
「ごめんね。私、全然力になれなくて。ナランチャにこんなケガさせちゃったし、私、なんにもできなくて……」
「いいって。それに、傷の手当してくれてありがとな。上着も。でも、ナマエも寒いだろ。返すよ」
オレは、自分がいくらケガをしようと、君がケガをしなければ、オレはそれでいいんだよ、ナマエ。
それにオレは、君に頼りにされて、本当に嬉しかったんだ。ナマエにケガをさせないで、ターゲットのことをぶちのめすことができて、よかったと思っているんだ。
だから、そんな目をしないで、笑ってくれ。
君の笑顔で、オレのことを幸せにしてくれ。
「そうだ、ナマエ。報告書はまた今度でいいんだろ? じゃあさ、ちょっと街に出ねえか? ちょっと腹も減ったところだし」
オレは、ナマエに悲しい顔をしてほしくなかった。だから、あえてナマエのことを誘ってみることにしたんだ。ナマエは目をまん丸にして、オレのことを見つめてきた。
「え、私はいいけど……でも大丈夫? 一回家に戻って、休んだ方がいいんじゃ……」
「家に帰る前にちょっとだけ、な? この家寒いし、スープでも飲んで一回あったまりたいんだよ」
それに、ナマエともっと一緒にいたいんだ。
心の中でこう付け足して、オレは笑ってみた。ナマエの心配そうな顔を、ちょっとでも笑顔に近づけたかった。
ナマエは考え込んでいたけれど、やがておずおずと微笑みながら頷いた。
「そう、だね。ちょっとだけ、カフェにでも行こうか。でも、無理はしないでね」
「へーきだって!」
ナマエを少しでも笑顔にできただけでも、ナマエのことを誘ってよかったと思う。
オレがゆっくり歩き出すと、ナマエもその隣をゆっくり歩いた。ギシギシという古い階段の音も、今となっては気にならなかった。
オレが好きなナマエはひとりしかいない。街へ出かける最中、ナマエと話しながら、オレはそれを実感する。
とりとめのない話をしていると、ナマエへの気持ちはどんどん膨れていくんだ。今日見たナマエの幻覚も、今日倒した敵のことも、もうほとんどどうでもよかった。オレが好きなナマエは、今オレの目の前で白い息を吐いて笑う、この子だけだ。
コツ、コツ。
二人分の靴音が、イタリアの街に響く。朝の街は、早朝に比べると、少し活気が出てきたところだった。
「じゃあ、あそこのカフェにしようか」
「そうだな」
そしてそんな街並みに、オレとナマエは溶け込んでいく。
世界でふたりきり、ではないけれど。それでも、ナマエがオレの隣にいてくれるなら、オレはそれでいい。
コツコツという音が響いて、そして消えた。