■復讐心
ある日、何気なく、図書室に行ったときのこと。
「…………」
ディエゴ・ブランドーが、静かに居眠りしているのを見かけた。
珍しいこともあるものだ。
そう思って、思わずまじまじと見てしまった。普段、彼がこんなに無防備な表情をしているのなんて、見たことがない。
腹が立つほど美しい顔立ちの彼も、こうしていると子供みたいだ。
「黙ってたら綺麗なのに」
彼の寝顔を見ながら、思わずため息を吐いてしまった。
しかし、私はわかっている。ここで黙っていないのがディエゴ・ブランドーなのである、と。
それだけではない。私は既に、この男に人生を滅茶苦茶にされている。
「……まったく」
そう思うと、なんだか腹が立ってきた。目の前にいるこの男のせいで、私は。
そして、ふと思いついた。
寝ている間に、彼に悪戯の一つでも仕掛けてやればいい。その完璧に見える仮面を、剥がしてやればいい。
大層な悪戯である必要はない。寝ている間、という誰もが無防備になる瞬間に、何か仕掛ける。それでも、彼のプライドを著しく傷つけることには違いないだろう。
それでいい、それで十分だ。これは、ちょっとした悪戯であり、復讐だ。
鼻を明かされた瞬間の彼の表情を思い浮かべて、私は思わず笑みを浮かべた。
――とは言っても、ここで何をするのが正しいのだろう。
以前、首元に噛み付いてやったことはあった。しかし、同じことをするのも芸がないし、痛みで彼のことを起こすことが目的なわけではない。もっとささやかで、もっと彼の仮面の下に直接触れて、それをぶち壊すような、そんなものがいい。
……そうだ。
彼に顔を近付けながら、私は思い立った。
以前までの私なら絶対にしなかったであろう選択。しかし、私は既に、以前までの私ではない。
――彼は、自分の意思で誰かと唇を重ね合わせることは、おそらく抵抗ないだろう。手段のために、自分の身を武器として、あるいは凶器として用いる。そうして私は以前、まんまと唇の純潔を奪われた。
しかし。この男だって、自分の意志なしに唇を奪われることは、プライドが傷つくだろう。
――誰かの唇を奪うことは、それに何かの意味があれば躊躇なく手段として用いる。しかし、合意なく誰かに襲われることは、この男にとっても屈辱であるに違いない。
そう考えると、私も彼も、同じような存在のように思えてきた。
自分の意志で接吻するのは構わない。けれど、自分の意思なしに接吻するのは誇りが傷つく。
その点では、あなたも処女のようなものだ――そう思い、私は彼の顔に近づき、今まさに触れんとした。
その時だった。
「フン。寝込みを襲うなんて、随分淑女らしからぬことをするようになったじゃあないか」
「――ッ!」
一瞬、時が止まる。思わずのけぞってしまった。その瞬間の私には、何が起こったのかわからなかった。
少し経って、ディエゴ・ブランドーがその顔を上げていたこと、そして美しくも鋭い瞳で睨まれていたことに気がついた。
「……起きて、いたの」
「少し前からな」
思わずふらついた私など意に関せず、彼は小さく欠伸をする。
失敗した。それだけはわかった。ささやかな復讐は、果たすことができなかった――
「フン、まさか君から求めることがあるとはな――お望みなら、今からでもキスしてやろうか?」
そして、彼はニヤリと嘲笑う。その瞳に辱められたような気がして、唇を噛んだ。顔に熱が集中したことが、嫌でもわかった。
彼は、私が本気でそれを望んでいないことは、十分知っているはずなのに。私が何を意図したか、彼にはわかっているはずだ。わかっていながらこうやって言ってくるのだから、本当にたちが悪い。
しかし、私は言い返さなかった。彼の挑発に、あえて乗ってやろうと思ったからだ。
そうだ。まだ、契機はある。悪戯は、嫌がらせは、復讐は――まだ終わっていない。
私は思い切って、彼に駆け寄ってみた。
そして、身長差を埋めるように、ちょっぴり背伸びして――不意打ちで、キスしてやった。
「!」
一瞬だけの時間。私はすぐ離れる。少し驚いた風な顔の彼に、私は微笑んでみようとした。
「……突然唇を奪われた感想はどうかしら、お義父さま?」
微笑んだつもりだったが、うまくはできなかったかもしれない。
だが、それでいい、これでいいのだ。彼が今、どんな心境になっていようと、どんな顔をしていようと――彼のやたら高いであろうプライドに傷をつけることは、できただろう。
私は急いで踵を返し、何か余計なことを言われる前に小走りで立ち去った。少しの高揚感を、胸に抱きながら。
彼は、追いかけてはこなかった。そんなこと、ずっと前から知っていた。
「……チッ」
ディエゴ・ブランドーはほんの少しだけ顔を歪めた後、軽く口を拭った。
彼女の後ろ姿を、忌々しげに眺めながら。