■漫画家の取材
「き、岸辺露伴……先生、ですよね」
見たことのある姿。だが、決して現実で出会ったことのなかった相手。写真でしか見たことのなかった人物が、私の住む町に訪れているなんて、どうして予想できただろうか。
彼がその漫画家であると気がついた途端――私は、ほぼ無意識的に声をかけていた。
「……そうだが、君は? 見たところ、地元の学生というところか」
立ち止まり、振り返ってこちらを見た男性は、確かに私が大好きな漫画の作者――岸辺露伴だった。
彼の描いた漫画の単行本に載っている著者近影そのままの姿だ――興奮した私は、つい早口になってしまう。
「そ、そうです。そして、その、えっと……ファンです!」
加えて、緊張で声が裏返ってしまった。さらに、私が今からしようしている発言は――突拍子もなく、無遠慮なお願いかもしれない。その事実が、さらに私を緊張させる。
彼くらいの漫画家なら、これくらいのことは日常茶飯事なのかもしれないけど。
「その、突然で不躾なお願いなのですが、サインなどいただけないでしょうか……。今、こんなノートくらいしかないのですが」
「気にすることはないよ。サインくらいスペシャルサンクスさ」
思いの外あっさりと、彼は私の願いを聞き入れる。そして、緊張して震えている私の手に握られていたノートを受け取り、憧れの漫画家はサインを描いてくれた。
しかも、私の大好きなキャラクターのイラスト付きだ。とんでもない速さの筆さばきに、思わず震えてしまう。
「あ、ありがとうございます!」
一生の宝物になりそうだ。心の底から感動に打ち震えながら、私はそのサインを眺めた。
――このノートは、一生大事にしよう。
そう決めたときの私は、世界で一番幸せそうな顔をしていたのではないだろうか。
「そうだ。ついでなんだが、少し頼まれてくれないかい?」
「は、はい! 私にできることなら喜んで」
取材の一環だろうか――岸辺露伴は私に対して、何気なく言った。
緊張しつつ返事をすると、彼はいたって落ち着いた様子でこう聞いてきた。
「この近くにある遺跡に行きたいんだけど、道が知りたくてね。それと、それについて君がどう思っているかってハナシも、よければ聞いておきたいな。教えてくれないかい?」
憧れの人の役に立てる。しかも、私が漫画の取材の役に立てるなんて!
「はい、お安いご用です!」
私は意気揚々と返事をした。あの遺跡のことなら、地元の人間なら誰でも知っている。あまりメジャーではないところが、逆に彼に気に入られたのかもしれない。
「えっと、あの遺跡は、この道をまっすぐ行って、そして――」
取材相手は地元の人間なら誰でもいいのかもしれないが、それでも私が彼の取材に応えられるということに、誇らしさすら感じていた。
そして、張り切ってそこまで話したところで。
一瞬、記憶が途切れた。
そして、気がついたら。
「そうか……いい話を聞けた。ありがとう」
私は、彼に全てを説明していた。
否、全てを説明した気になっていた。
「あ……」
岸辺露伴は満足そうに頷いている。私はそれを見て、嬉しい気持ちになったけれど――それでも、何か「変だ」という感覚が、少し残った。
何か。何かおかしいと思っているのに。
何故か、何も口に出せない。
「じゃあ、ぼくはこの辺で失礼するよ。これからも応援よろしく」
――待って。
そう言いたいのに、口に出せない。形容しがたい感覚が、わだかまりとなって胸のうちに引っかかる。
そうして岸辺露伴は私に背を向け、遺跡の方向に歩き出した。追いかけたい気持ちもあるのに、足は一歩も動かなかった。
結局私は、追いかけず、声をかけることすらせず、漫画家の背中を見送った。
その背中に、何か――どこかで見たことのある影が、見えた気がした。
――何だったんだ?
不思議な感覚。言いようのない違和感。
だけど、とにかく。私が憧れの人と少しの間話をして、好きなキャラクターのイラスト付きのサインを描いてもらって、私の話により彼の取材の役に立った。これらのことは、紛れもない事実なのだ。
今日の出来事は、一生の思い出となって残るだろう。違和感のことを無理やり頭から追い出して、私はサインを抱き寄せた。
岸辺露伴という漫画家が行ったこの町での取材が、いつか彼の漫画に反映する日が来るのだろう――その日のことに思いを馳せながら、私はいつも通り、帰路につく。
心の奥底にひそむ違和感の正体に、気づくことのないまま。