■吸血鬼と人間
「ナマエ・ミョウジ……」吸血鬼の男は、誰もいない空間に向かって呟いた。
人間をやめた自分は――これで、自身の姓を捨て去ったも同然だった。
大学にも行く必要はない。社会に出るわけもない。公的に姓を呼ばれることは、もうなくなった。
敵となった幼馴染も、夜の下僕たちもみな、吸血鬼の男のことは『ディオ』としか呼ばなかった。私的に姓を呼ばれることも、もうなくなったのだ。
だが、それでも引っかかるのは――ナマエ・ミョウジの存在である。今まで会ったどの人間より姓を大事にする、今まで会ったどの人間より愚かな女。彼女は今の、姓を捨て人間をやめた自分を見て、傷を負い人間を喰らう自分を見て――いったい何を思うのだろう。何と呼びかけるのだろう。
以前会った時に約束した、あの日まであと数日。彼女は何を思い、何を言うつもりで、あの場所に立つのだろうか。
吸血鬼の男は独り思案しながら、下僕である屍生人に向かって、ひとつ命令を下した。
「…………」
数日後、ナマエ・ミョウジは屍生人の手によって、ディオの潜伏する館に連れてかれていた。
彼女は体を震わせながらも、ディオのことをまっすぐ見つめている。その顔には、一ヶ月前にはあった赤みはない。ただ、恐怖が混じった複雑そうな表情を浮かべている。
ナマエを連れてきた屍生人は、数日前に館から出ていった時に比べ、身体の一部が崩れかかっていた。だがディオはそれを気にもとめず、屍生人が叫ぶ言葉を口角を上げながら聞いている。
「ディオ様ァ! ナマエ・ミョウジを連れてきましたぜェ!『私はナマエ・ミョウジよ』なんて自分で言ってたので間違いねェです! 抵抗されて厄介でしたが、まあ何とかなりました。早く、早くおれにこの女の血を吸わせてくだせぇ!」
予想通りの反応だ、とディオは内心嘲った。ディオは下僕に対し、指定された日にあの場所にいる女に、このように声をかけろと命令したのだ――『おまえがナマエか?』と。そして、その女が自分でナマエ・ミョウジと名乗ったら連れてこい、と。
拍子抜けするほど想定通りだった。やはり、ナマエの誇りのことを考えると、こう声をかけられた彼女が、自らの姓名を自白することは当然のことであったのだ。
「ご苦労、よくやった。ただ――おまえにナマエ・ミョウジの血は吸わせん。隣の部屋に他の若い女がいる。血を吸いたいならそいつの血を吸え」
ディオが告げると、屍生人は迷いもせず隣の部屋へと急いだ。身体が崩れかかっている屍生人は、少したどたどしく動いている。
屍生人の姿を見送ると、この部屋にはディオとナマエ以外に誰もいなくなった。
「ほんの気まぐれのつもりであの屍生人に命令を下したが、本当にあの場所におまえがいるとはな。約束した時間が過ぎても、――おれの下僕が外に出られる、夜になってさえも」
ディオは、嘲るようにナマエに語りかけた。ナマエは表情を変えず、ただディオのことを見上げた。
「一体何時間、おれのことを待ち続けてくれていたんだ? ン? そんなにも、おれの姓が欲しかったのか?」
ナマエはその質問を聞いた時、何かを言おうとして口を開いた。だが結局、何も言えずに閉ざしてしまう。ディオはそれを暫く見つめていたが、やがて大げさにこう放った。
「いいじゃあないか! おれは既に人間ではない。不死の命を手に入れたおれは、いずれ世界を支配する――おまえにも、その隣に立つ権利をやろう。他にいない、唯一無二の役目だ。どうだ?」
実際、自分の隣に、自身と同じような能力を持つものがいれば、少なからず役に立つだろう、利用できるだろうと考えていた。肉体の再生能力がない屍生人とは違う、自身と同じ吸血鬼が隣にいれば。
ディオが口を閉ざすと、場に静寂が訪れた。ディオはナマエの様子を伺いながら、機嫌よさげに薄く笑っている。
ナマエはしばらく黙り込んでいたが、小さく息を吐いた。そして、キッ、とディオのことを鋭く見つめる。
「……私は」
自らの声が震えていることに気がついたナマエは、慌てて咳払いをした。そして、今度こそ毅然とした口調で話し始める。
「私は、七年前――お墓に向かって、唾を吐きかける男の子を見たわ。あなたのことよ、ディオ・ブランドー」
それは、ディオの誘いから全く外れた、極めて的外れな言葉だった。
「何……?」
機嫌よさげだったディオは一転、ナマエの語り出した言葉に対し眉を顰めた。そんなディオを睨みつけながら、ナマエはただ語り続ける。
「『最低の父親だった』『くずめ』――男の子は確かに、『ダリオ・ブランドー』と刻まれたお墓に、こう言い捨てていたわ。全ての言葉は聞き取れなかったけど」
見ていたのか。聞いていたのか。
父親が眠るあの場所にいたおれのことを――おれがあいつに向かって吐き捨てた、あの言葉たちを。
ディオが眉根を寄せているのをよそに、ナマエは語り続ける。ただひたすら、淡々と語り続ける。
「衝撃だった。自分の父親に対し、最低って言える子が、この世にいるなんて。特に、敬愛する父を亡くしたばかりの、当時の私にとってはね」
父親を亡くしていたのか。ディオは現在のナマエの言葉から、頭の隅に追いやっていた、七年前のナマエの言葉を思い出した。――『お父様の血を半分引いているという証だもの』――ナマエは恐らく、自らの姓のことを、敬愛していた父親の形見のように思っているのだろう。七年前も、そして今も。
「遠出して街に行った時、たまたまあなたのことを見かけた。その時私は、どうしても確かめたくなった。というより、信じたくなかったの。父親のことを嫌う人間がいるなんて」
だから彼女はあの時、自分の言葉を押し付けるかのように話していたのだろうか。今思えば、あれは押し付けていたというよりは、確かめようとしていたのだろう。自分の考えは間違っていないことを。実際、彼女の考えは間違いだらけだったわけだが。
脳の隅に追いやっていた、七年前の彼女のことが、怒りのことが徐々に思い出される。朧げな記憶を思い返すように、怒りがじりじりと燃え上がるように。
「話しかけてみて、殴られて。あの時の私には全く信じられなかったけど、あなたが父親のことを心の底から嫌いだったってことはわかったわ。そして私は、殴られたことが受け入れられなかった。あなたのことを忘れて、七年生きてきたの」
それは自分も同じだ、とディオは思った。この七年間、ナマエのことは頭からすっかり追い出していた――あの時、偶然に再会するまでは。
「だからこの間会った時は、本当にびっくりしたわ。そしてあなたは、優しい言葉をかけてくれた――だけど家に帰って何故か、ふと七年前のことを思い出したの。あなたと私は、決して分かり合えないってことをね。それを思い出した時、あの優しい言葉は嘘だったんじゃないかって、そう思ったの。もしかしたら利用されるんじゃないか、って。実際、その通りだったみたいね」
そこまで語ったナマエは、吸血鬼に向かって微笑んだ。その穢れなき笑みは七年前のものと変わらず、それでいて吸血鬼の男のことを挑発しているようにも見えた。
「……おまえは、何が言いたい? 回りくどいことを言ってないで、ハッキリと言ってみろ」
ディオは歯噛みしながら、ナマエに向かって問いかける。ナマエは一回だけ深呼吸した後、言われた通りハッキリとこう告げた。
「私が夜になってもあの場所で待っていたのは、あなたを拒絶するためってこと。そしてそれは、今も変わらないってことよ、ブランドー」
ナマエの声が敢然と響いたのを最後に、沈黙が場を襲った。それは石のように固く、冷たく、ただ重苦しいものであった。
ナマエは決然とした態度ではあるが、彼女の額からは冷や汗が流れている。それを確認したディオは、湧き上がりかけた怒りを抑え、冷たく呟いた。
「……そうか。なら仕方がないな」
恐ろしく冷静に、吸血鬼は女へと近づいた。ナマエはもう後には引けず、ディオのことを睨みつけ続ける。
「おまえをおれの隣に立たせることはしない。おれの下僕にさせてやる」
その言葉を聞いた途端、女は抵抗しようと手を上げた。だがそれより先に、吸血鬼が女の首筋に指を突っ込む。
抵抗虚しく吸血された女は表情を歪めた。そしてその直後、館内に女の断末魔が響き渡る。
「やはり若い女の血はいいな、溢れるほどの力が沸いてくる。さて、エキスを与えてやろう」
男がその言葉をかけた途端、ぐったり倒れていたナマエが、ゆっくりと起き上がった。
ナマエも、人間ではなくなってしまった。屍生人――吸血能力があり、不老不死という吸血鬼のような存在でありながら――肉体再生能力は持ち合わせていない、吸血鬼の下位互換。それでいて、ディオの命令に従うことを強制される、忠実な夜の下僕。ナマエは、そんな悲しい存在になってしまっていた。
「ナマエ・ミョウジ……おまえは、ジョナサン・ジョースターを倒しにいけ。倒すことができたら、あいつの血を吸っていい」
血が吸いたくてたまらない――そんな顔をしているナマエに、ディオはこう命令した。相手の血を吸っていいと言えば、大抵の屍生人は何も言わず動き出す。
どうやら、屍生人と化したナマエ・ミョウジも同じようだ。ナマエは頷いた後、踵を返し屋敷から出ていった。ディオは嘲り笑いながら、その後ろ姿を見送る。
「確かにおまえを利用することはできたな。ああ、おまえは確かに役に立ったぞ、ナマエ・ミョウジ。暇つぶしとして、おれの傷を癒す血の一部として、な」
いくら屍生人と言えども、ナマエの力では到底ジョジョには叶わないだろう、とディオは考えていた。だがディオは、それでも一向に構わなかった。吸血鬼でもない、屍生人ごときのナマエに戦力など求めていなかったので、負けても別に気にする必要がなかったからだ。
「さて。傷も癒えた頃だし――いよいよこの街を、侵略しようじゃあないか」
高笑いする孤高な吸血鬼の隣には、誰も立っていなかった。
こうして、ナマエ・ミョウジはディオの前から姿を消した。
ジョナサン・ジョースターがディオの前に現れた時――ナマエ・ミョウジはもう、他の屍生人と同じように、彼に頭部を破壊されて死んだのだ、と思っていた。
ナマエは最後まで、姓を重視していた。だがもう、これで二度とあの忌々しい姓で呼ばれることはないと、ディオはむしろ安堵していた。
これでやっと、あの姓から解き放たれた――今度はあの女のいない世界を支配してやろうと、彼は『ディオ』として世界を支配してやろうと、深海で独り、そう決意していた。
それなのに。
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