■少年と少女
「あなたがブランドー?」その少女に初めてそう呼ばれたとき、少年は面食らい、同時に顔を顰めた。
全く知らない人間に急に名を呼ばれた、ということもあるのだが――それ以上に、自分と同じくらいの年の子供に『ブランドー』と姓で呼ばれたことはなかったからだ。
貧民街の子供だろうと貴族の子供だろうと、少年だろうと少女だろうと、みな彼のことは『ディオ』と呼んでいた。時たま『ディオ・ブランドー』とフルネームで呼ばれることもあったが、そう呼ばれたことは数えるほどしかない。
大人たちからも、基本的に『ディオ』と呼ばれていた。だが、時には姓で呼ばれることもあったし、更にはこう言われることもあった――『ブランドーのせがれ』や『ブランドー卿のご子息』などと。
そう呼ばれるたび、少年はどうしようもない吐き気に襲われた。その姓を自覚する度、自身に流れる血を自覚する度に、いつも気が狂いそうになったのだ。だが、それでも大人たちの前で――ジョースター家に引き取られてからは特に――そのような素振りを見せることはなかった。彼は常に平静を装い、あくまで表向きは姓に誇りがあるように見せていた。
それでも、できれば名で呼んでくれ、と頼むこともあった。大人相手であっても、子供相手であってもだ。そうすることで、彼は不要な苛立ちを発生させないようにしていた。結果的に少年は姓で呼ばれる機会を最小限に留めていたし、そうなるように行動してきていたのだ。
だから、少女に突然姓で呼ばれたのは全くの想定外であり、同時に心外であると言わざるを得なかったのであった。
「ぼくはディオだ。君は?」
ぼくのことは名で呼べ。そんな意図を込め、少年は少女にこう告げた。大人たちに姓で呼ばれるのさえ、反吐が出そうになるほどの嫌悪感に見舞われるというのに――年がそう変わらない、ただの小娘にそう呼ばれるなんて!
だが、少年の嫌悪は、少女には伝わらなかったらしい。何も知らない愚かな少女は、ただ穏やかに微笑んだ。
「そう、ディオ……ディオ・ブランドーね。私はナマエ・ミョウジ。よろしく、ブランドー」
ナマエと名乗った少女の笑みが、どうしようもなく癪に障った。だが少年は、それを顔に出さないよう、拳を握りしめ堪えた。――自分の欠点は怒りっぽいことだ。この間、それを反省したばかりなことを忘れてはならない。このぼくが、女ごときに手を出す必要はないのだ。
「どうして君は、ぼくのことを姓で呼ぶんだい? みんなぼくのことをディオと呼ぶし、できれば君にもそう呼んでほしいんだ」
少年は紳士的に、かつ穏やかに問いかけた。拳を固く閉じ、内心の怒りを握り潰す。冷静に、冷静に。怒りという感情を出してはいけない。
だが少女は、目の前にいる少年の思いなど露知らず、残酷なまでに無邪気にこう放った。
「私は、名字で呼ばれるのが好きだし、名字で呼ぶのが好きなのよ。逆に、どうして名字で呼ばれるのが嫌なの? 自分の姓は誇りに思うべきだわ。ねえ、そうは思わない?」
少女が零した純粋な笑みは、少年を逆撫でするもの以外の何者でもなかった。
少年は自分に半分流れている血の存在を思い出し、固く拳を握りしめた。あの忌まわしい、憎むべき血――彼の手は微かに震え、爪が掌に食い込み、僅かに赤いものが垂れていた。
「ぼくに……。このぼくに、あの父親の血筋を誇りに思えと言うのか?」
「……どうして? 誇りじゃないの?」
そこで少年は気がついた。この少女は、ただ純粋なわけではない。ただ、残酷なまでに無知な、赤子のような存在なのだ。他人が不幸せかもしれない、などと考えることすらできない、自分の世界にだけ籠る箱入り娘――
それに気がついた途端、彼の中である感情が蠢いた。彼自身自覚し、反省していた欠点。抑えるべきだと自覚していた怒り。だが彼は、まだ感情を完全にコントロールすることができていなかった。
そしてそんな彼に、彼女はトドメと言わんばかりの言葉を押し付けた。
「私は誇りに思っているわ! 先祖代々受け継いだ名前、そしてお父様から半分頂いた名前だもの。お父様の血を、半分引いているという証だもの。だからあなたも、ブランドーという姓を誇りに思うべき――」
少女の言葉は、途中で遮られた。
何故なら、少年が勢いよく彼女の頬を叩いたからだ。小気味よい音と共に、少女は思い切り崩れ落ちた。
「あんな男に――誇りなど! あんな奴の血に誇りなんてない、あってたまるかッ! ぼくに、あの父親の血が流れていることなど、思い出させるなあ――ッ!」
今も震えている少年の拳には、怒りと同時に別の感情も混ざっていた。彼は、少女に思い知らせたくなったのだ。ナマエ・ミョウジが感じているほど、世界は幸福ではない。ナマエ・ミョウジが信じているほど、自分の父親の姓に誇りを持つ人は多くない。ナマエ・ミョウジが思っているほど、父親というのは偉大な存在ではない――そう、理解させたくなったのだ。
当のナマエは、ただ呆然と少年を見上げていた。自分が感じた痛みを理解できない、何をされたかわからないと言わんばかりに、目を見開いて放心している。そんなナマエを見て、少年は息を吐いた。彼女の様子を見て、若干の冷静さを取り戻すことはできたが――だからといって、忌々しさが完全に消えたわけではない。
「……ナマエ・ミョウジ。君は、こうやって父親に殴られたことはないんだろう? 君の母親だって、君の父親に殴られたことはないんだろう。だから、そんな能天気なことを平気で言えるんだ」
少年が吐き捨てても、ナマエは放心したままであった。彼女が一体どんな感情を胸に抱いているのか、それは少年にはわからない。最も少年は、それを理解しようとも思っていなかったし、する必要性も感じていなかった。
「ぼくにブランドーなんて姓は必要ない。ぼくはディオだ。このディオに、父親の血脈なんてものはいらない」
ディオはただ、憎らしげに言い捨てた。彼を見ているナマエの顔を、ディオは目に入れようともしなかった。
ディオはナマエを置いて、踵を返した。荒々しく帰路に着きながら感じたのは、苛立ち。女に手を上げる、怒りっぽい男――自分のその行動に、自らの体に流れる血の存在を、どうしても思い出してしまう。
「クソッ……」
ああ、虫酸が走る! 父親の血なんて要らないと思っているのに、ぼくはどうしても、それを感じずにはいられない!
「あいつの血の存在を――消し去ってやる。ぼくは、ディオだ。……ディオだ」
ディオは目を閉じ、頭を振った。苛立ちを消し去り、感情をコントロールすることを決意するために。
そして、脳内から父親の存在、そしてナマエ・ミョウジのことを追い出した。自らの怒りの原因の、全てを。怒りの原因など、忘れてしまえばいい。記憶の片隅にも残さなければ、それでいいのだ。
故に、少年は考えなかった。考えようともしなかった。何故少女が彼の名を知っていたか、何故彼に接触したのか、を。彼がそれを知ることになるのは、随分後になってからの話であった。結局ディオはそれから七年間、ナマエに会うことも、話すこともなかった。
月日は、一定の速度で流れ続ける。七年の時を越え再会した二人は、一体何を感じ、どんな言葉を投げかけるのだろうか。
[栞を挟む]