6.諦め
逃げて、逃げて、逃げた。ここがどこかはわからない。けれど、これでとりあえず大丈夫だ。彼らにもう私の記憶は残っていない。彼らは『ジュリオ』を殺した人間を探していた―――私がそれだと気づかれては不味い。私が私自身を理解できないまま、警察に渡されるなんて、絶対嫌。法律はよくわからないけど、流石に人殺しに甘くはないだろう、私が記憶喪失の日本人だからといって。面倒なことは避けたい。
嗚呼、記憶を失う前の私、なんてことをしてくれたの。……これで殺したのは『彼女』ではなかった場合、私は無駄に犯罪に手を染めたことになる。それはそれで腹立たしいことだ。なんで死体の前で記憶を失うんだ、全く。
『イン・シンク』を出そうと思っても出すことができない。これでまた振り出しか。また、野良猫にならなければならないのか。
「はあ」
ため息をついた。久しぶりに食べた暖かい食事、美味しかったな。
そして。記憶上、初めて受けた、他人から受けた、善意。優しさ。暖かかったな……。
何故か、ホロリと涙が零れた。自然と崩れ落ちる。周りの人は道の端で蹲る、薄汚れた東洋の少女のことを、不審そうに見るも手を差し伸べてはくれない。
これが悲しいということなの? 辛いの? 寂しいの?
『ナランチャ』と呼ばれていた彼。
彼だけは、私に救いの手を差し伸べてくれた。私をこの雑踏から見つけ出してくれた。そして、ブチャラティやフーゴという男が温かいご飯をくれたけれど……、でも、疑われた。何故疑われたかはよくわからない……。まあ、おそらく事実なんだけれど。
また、そこらでゴミ箱を漁っていれば見つけてくれるかも、なーんて。私もまた、随分甘いことを考えるのね。
彼らに私の記憶はない。また、誰かが気まぐれで見つけてくれるまで……もしくは、私が記憶を取り戻すまで。それまで、私が社会に戻れる可能性は、限りなく薄い。なんだか、泣けてきた。もう完全に人生を諦めるしかないのかな。……それだったら、あの時白状した方がよかったのかも……いや、やっぱりそれも嫌だな。嗚呼、もう、ダメか、な。
せめて『インシンク』に会えたら、なんて。変なことを思いつくようになったものだ。
あれから何日、何週間経ったのか、全然わからない。もしかしたら数日のことかもしれない。数える余裕もない。
酷い空腹に見舞われる。身体中の痒みも、一周まわって気にならない。ゴミを漁る気力も、川を探して水を飲む気力もない。
完全に野良猫以下の生活を送っている。勿論『イン・シンク』も出せず、周りの人は誰も助けてくれない。誰も。
もうこのまま、記憶を取り戻せず、惨めに死んでいくのだろうか。思えば、あの日、人が死んでいるのを見かけてから苦しい、辛い、としか思っていない。楽しいと思ったことなどない。
その記憶の中でただひとつ、輝いているのがあの少年の姿。
なにもわからないまま警察に渡されるよりは、もはやこのまま死んでも悪くないと思っていたが、せめて、せめて、せめて。また、あの少年に会えたりしないだろうか?
もう一度彼に会いたい、と、願うことは無駄なことなのだろうか?
また、温かいスープを飲みたい、と願うことは、傲慢なことなのだろうか……?
思考力が散漫になっていく。目の前が暗くなり、足に力が入らない。私、このまま死ぬのかな。
暗転。何も見えなくなった。何も感じなくなった。