4.彼のヒーロー

 そうやって過ごして、どれ位たったころだろうか。何回太陽が沈むのを数えたときだろうか。
 レストランのゴミ箱を、いつもと違う所で漁っていた時のことだった。今日は、この付近に浮浪児は私の他に見当たらない。

「……?」
 どこからか、人の気配がした。野良猫のような私を興味本位で覗き見る人はいるが、基本的に関わろうとはせず立ち去る。自分のものを盗まれるのが嫌なのだろうか。それとも単に面倒なのであろうか。
 だけど、だけど。その人は違った。

「なあ、腹減ってんのか?」

 声の方を振り向く。橙色のヘアバンドがついた黒い癖っけのある髪と、ヒラヒラした腰巻。中性的でハッキリとした目鼻立ちの、身長はあまり高くなく、少し声の高い男の子が立っていた。歳は私と同じくらいだろうか?
「え……あ、あの……?」
「着いてきな」
 戸惑っていると、彼はぶっきらぼうに言い放つ。もしかしたら私服警察か? と、少し疑ったがそれにしては幼いので、とりあえず警戒を緩める。だが、それとは別に私のことをどうにかしようと考えている可能性も否定しきれない。最低限の警戒だけはしておくことにした。この少年は一体、何をしたいのだろう?

 少し歩くと、レストランが見えた。彼は躊躇いもなく店内に入っていくので、私は困惑しながら後ろに着いていく。
 何をするの? この少年は何をしたいの?
 私が思案していると、彼は、
「こいつにスープを飲ませてやりたいんだがよォ―――ッ! 構わねぇよな?」
 ただ、叫ぶようにこう言ったのだった。

 え? 

 スープを飲ませる……? 私に? 何故、そんなことを。
 少年が放った言葉に完全に不意をつかれ、身体が固まる。
 まさかこの少年から……恐らく、善意。そんなものを向けられるとは思っていなかったのだ。今まで、お金を(しかも盗んだものだ)払わなければ、誰も何もしてくれなかったのに。お金を払わないで、何かをしてくれる人がいるなんて。思わず呆気に取られ、ぐるりと周囲を見渡す。
 少年が放った言葉の先には、二人の男がいた。
 視線が私の方に一斉に向き、思わずたじろく。テーブルの男たちは何を言うわけでもない。ただこっちを見るだけ。ただ、その中のひとり――一部の色素の薄い前髪をたらす、穴の空いたスーツを着た少年が、若干目を見開いているように見えた。まるで、デジャビュにでもあったかのように。
 テーブルへ、黒髪の少年は向かったので、慌ててついていく。何が何だか、わからないままで。
 すると中心に居る、黒い髪にアクセサリを二つ頭に乗せたおかっぱ頭の男が、スッ、と運ばれてきた料理(スープとパスタ)を私の前に差し出した。
 特に何を質問するわけでもなく、かといって嫌悪の表情もない。
「事情は知らない。聞くつもりもない。だが、オレの仲間が君を連れてきたと言うなら、とりあえずこれを食べるといい」
「あ、ありがとうございます……?」
 男がそう言うので、恐る恐るスープを手に取った。……温かい。
 思わず、勢いよく飲み干してしまった。舌が火傷しそうなほど熱い料理。味が濃く、カビの匂いもしない。古くない。固くもない。……おい、しい。

 これが、食べ物の有り難み?

「……ご馳走様でした」
 気がついたら、手を合わせ、日本語で呟いていた。……盗みをはたらいている時は、こんなことはしていなかった。
 満腹になった所で、男達の視線に気づく。……思わず全部食べてしまったけど、私はどうお礼すべきなのだろう? 払うお金はない。これで体で払えとか言われたら……、本当にどうしよう?
 どうお礼すべきかを考えていたのに、口は違う形に開いていた。
「あの、なんで私なんかにこんなことしてくれるんですか」
 実際、こう思っているのは真実だ。他にも浮浪児なんて沢山いるのに、何故?
 これで変なことを企んでいるような素振りを見せたら、いくら温かいスープを飲めたからと言って、ただじゃ済ませない。親切な人をあまり疑いたくはないが、それでも用心に越したことはないだろう。もし悪い予感が的中したなら、ここにいる全員からいくらかの記憶を消してやる。……『イン・シンク』が、出てきてくれればの話だけど。
 すると、オレンジ色のヘアバンドの少年が、すかさず言う。その言葉を待ってました、と言わんばかりに。
「そうしたいと言うならしばらくオレの家に泊まってもいいんだぜェ? そしてガキはイテッ」
 オレの家に泊まってもいいという微妙な問題発言に警戒を強めていたら、おかっぱ頭の男が少年を軽くごつくのを見て、やや拍子抜けする。
「痛いッ! 痛いよブチャラティ!」
 ブチャラティと呼ばれたおかっぱ頭の男は少年を無視して、私に感情を込めずにこう聞いてきた。
「そうしたいと言うなら、暫く家は用意してやる。だがこいつの言う通り、ガキは家に帰るもんだ……そして学校に行け」

 ………………え? 今、なんて?

 私の前にいるのは、オレが言いたかったのに……とふて腐れる、私をここに連れ出した少年。オレの受け売りだろ、と呆れる『ブチャラティ』。あまり騒がないでください、と騒ぐ少年を嗜める、色素の薄い髪をもった男。
「いいじゃねーかよ、オレだって誰かのヒーローになりたかったんだよォ! それに、人の為になるのって、悪い気はしねーだろ?」
 彼らの話を聞いていても、少年の話を聞いていても、わからない。
 この人たちが、どうしてこんなことを言ってくれているのかがわからない。私なんてまだ、この人たちのことをまだ疑っていると言うのに。
 この人たちは、信用していいものか? 私は、本当のことを言ってみることにした。この人たちが、信用に値する人間かどうか、確かめたいから。
「私、家も家族もわからないの。いつからイタリアにいるのかも。本当に、わからないの。一番古い記憶は、確か、一週間くらい前。記憶喪失になっちゃったみたい、なの……」
 私がつかえつかえそう言うと、空気が一変した。
 
 皆の顔つき、特にブチャラティと呼ばれたおかっぱ男の表情が一瞬で変わっていた。
 私を助けてくれた少年は、純粋に私が記憶を無くしているということに驚いているように見えた。しかし、ブチャラティと、もう一人の男は違う。
 どこか、冷や汗のようなものをかき、私に警戒したような顔を向ける。
「な、なに?」
 困惑。そして、警戒されたことへの警戒。
「失礼だが……君に……ひとつ、『質問』をしよう」
 何故? どうして? なんで、こんなに警戒されているの? 困惑だけが私の身体をかけめぐる。
「な、……なに?」
 『ブチャラティ』は、私にこう投げかけた。
 
「『お前に質問する』……『橋の上で』……『ジュリオに会わなかったか?』……」

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