44.旅の終わり、そして始まり
朝、カーテンの隙間からの光で目が覚めた。
寝ぼけ眼のまま隣を見ると、ナランチャの寝顔がそこにあった。
子供のようにあどけない表情に、思わず笑みがこぼれる。どうやら、枕投げをして、お互い笑いながらいろいろな話をしているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
同じベッドで眠った割に、お互いきちんと服も着ているし、色気も何も感じられない。ただ単純に、添い寝をして終わっただけのように見える。
それが良いのか悪いのかよくわからないが、良いのだろうということにしておいた。恋人というよりは親友みたいだったが、自分にとってのヒーローと親友みたいな関係になるのも、なかなか良いのではないか、なんて思った。
そう思いながら、ナランチャを起こさないように、ベッドからゆっくりと出る。カーテンを開けると朝日が眩しく、何のわだかまりもなく、思いっきり伸びをすることができた。
こんなに清々しい気持ちの朝は、初めてなのかもしれない。
自分を縛っていたものは、もう何もない。
私の命を狙う者は、もういない。私のことを探し、日本に戻そうとする者ももういない。私の故郷だという日本で、私のことを愛している者は、最初からいない――それがわかっているから、私はこの国に戻ってくることができた。
そして、この街で衝突した人とも、既に和解している。それと同時に、お互いの気持も確かめ合うこともできている。それらのことを思い出し、私は安堵した。
自らの記憶と自分を探す、追憶の旅は終わったのだ。そして私は、自分の意志で、これからの道を選んだ――
それがどのような未来になるかは、現時点ではわからない。だが、今という時間が大切なものであることはわかっている。それだけで、この選択が、私にとって最善のものであったと言うことができる。この選択が正しい道だったと、信じることができる――
「……んあ? ナマエ?」
「ああ、起こしちゃった? ごめん。おはよう、ナランチャ」
「ん、おはよ……」
未だ毛布の中にくるまっている、とても眠そうな彼に、私は笑いかける。
こんな時間を毎日過ごすのも、全く悪くない。むしろ、とても良い。そう思いながら、私は心の中で『イン・シンク』に呼びかける。
――私は、幸せだよ。だからもう、私の記憶を奪わないでね。
心の中でこう言ってみたとして、『彼女』がどう思うのかは、よくわからない。結局、私の記憶を失わせたのは、過去の私自身でしかないのだから。
しかし、『イン・シンク』はそっと、微笑んだように見えた。それは、『彼女』から、『記憶を失う前の私』からも祝福されたように思えて――それだけでも、これで良かったのだと、そう思えた。
「ああ、ナランチャ、ナマエ。仲直りはできたようですね」
ナランチャと共にいつもの場所に行くと、フーゴが既に来ていた。普段どおりの声色で話しかけてきたフーゴに向かって、ナランチャは私の肩を抱き寄せて――って、え?
「とーぜんだろ? オレはナマエのことが好きだし、ナマエはオレのことが好きなんだからなッ! 手ェー出すなよ、フーゴッ」
そしてナランチャは、いきなりこう宣言した。
私は、突然のことに困惑してしまう。だが、一瞬遅れて事態を把握すると、真っ赤になったことが自分でもわかった。
「別に、誰もそんなことは聞いていないんですけれどね」
フーゴは呆れたような顔はしているが、あまり驚いたという風でもない。むしろ、私の方が驚いてるくらいだ。
「まあ、仲直りできたのならそれでいいです。仕事の場でギクシャクされても面倒なので」
こう言ったフーゴに、私は慌てて昨日のお礼を言った。彼に感謝している気持ちは伝えねばならないし、これ以上心配かける訳にもいかない。
「フーゴ、昨日は話を聞いてくれてありがとう。私たち、もう大丈夫だから」
しかし、フーゴが何か返答する前に、ナランチャが反応する。
「え、何だよォー、フーゴ、ナマエと話したのか?」
そんな私たちに、フーゴは息を吐いたが、口元を緩めた。そんな彼につられて、私たちも思わず笑う。
そうやってしばらく会話していると、やがて、後ろから別の声がかかった。
「おまえたち……」
聞き覚えのある声に振り向いてそちらを見ると、ブチャラティが少し驚いたような表情でこちらを見ていた。
何故驚いてるのか――と少し考えて、思い出した。
そういえば、まだナランチャに肩を抱き寄せられているままであった。それを思い出すと、また顔が紅潮していくのがわかった。
「ブチャラティ、おはようございます」
「あ、ああ」
いつも通りなフーゴの挨拶に対しても、ブチャラティはやや戸惑うような表情を見せていた。
「ブチャラティ、おはようございます。えっと、その、私たち――」
「ブチャラティ! その、オ、オレ!」
そんな上司に対し、私たちの方から何か言うべきかとも思い、私たちは口を開きかける。しかし、どうしても慌てたようになって、上手く説明することができていない。
そんな風にあたふたしている私たちを見て――ブチャラティは、口角を上げた。そして、彼は軽く笑みを浮かべながら、素直にこう言ってくれた。
「はは、いつそんなことになったのかは知らないが――まあ、おまえたちの好きにすればいいだろう。組織内恋愛も禁止というわけじゃあないしな。なあ、フーゴ」
「……仕事に支障を出さなきゃ、いいんじゃあないですか」
少し機嫌が良さそうな上司からの言葉に対し、フーゴは呆れたように息を吐く。
そんな光景に、顔は赤らめつつも、私は笑った。
自分の居場所に戻ってきたのだと――ただひたすら純粋に、そう思えた。
「とにかく、だ。ナマエが戻ってきたことによって、予定が多少変わる。そろそろ仕事の話に入ろうか。……ナマエ、良いな?」
「はい。私、ずっとあなた達のチームにいたいですから」
仕事モードに入ったブチャラティの言葉に、私はしっかりと頷く。
そう、四人一緒で。私の居場所は、間違いなくここだ。
これからは――四人一緒のチームで一緒に過ごす。そして、彼の隣で、生きていくのだ。
私の大切な人の隣で。
そうして私達はいつも通り仕事を進め――やがて、今日の仕事が終わった。
「じゃあ、ぼくはこれで失礼しますよ」
「おう、おつかれフーゴ」
「おつかれさま」
フーゴは支度を終えると、すぐに帰ってしまった。
そんな彼に挨拶したのち、では私たちもと、私とナランチャも帰る支度を始める。
今日からも、以前と変わらずに、ナランチャと一緒に、ナランチャの家に帰ることができる。それがどうしようもなく嬉しくなっている私に――ふと、後ろから声がかかった。
「ナマエ」
私が振り返ると、ブチャラティが少しだけ笑みを浮かべていた。その表情に少しだけ驚いていると、彼は穏やかな声色で、言葉を続けた。
「きっと、君とナランチャなら、これからも上手くやっていけるだろう――おまえたちの幸せを、願っておこうかな」
そう言って、ブチャラティも去っていった。
彼の言葉に、私とナランチャは顔を見合わせて、ちょっぴり照れ笑いした。
そんな今日という日が終わりかけた、夕焼けの中で。
私とナランチャは、二人並び、のんびりと帰路に着いていた。
「ナマエ、今日さ、何か作ってみねえ?」
「料理ってこと? 私、イタリア料理そんなに作ったことないし、そもそも料理自体そんなに作れないと思うけど」
「いいから! 一緒に作ってみようぜ、オレ、ナマエが作ったもん食べてみて―よ」
「……カラいものだったとしても?」
「ゲッ、それは勘弁だぜェ――」
他愛もない話をしながら、いつの間にか私たちは指を絡めて手をつないでいた。これが確かな幸せだと、そう実感しながら。
「そうそう、今度、前に言ってた夜景、見に行こうね。夕暮れもいいけど、日が落ちてからの夜景、ナランチャと一緒に見てみたい」
「……そうだな、一緒にいろんなこと、しような! 他にも約束してたこと、いっぱいあるもんな――」
もうやれないかもしれないと思っていた約束たちも、きっと果たしていくことができる。そう信じられる。そして、新たな約束を紡ぐことにも、希望を持てる。
それが幸福というものではないかと、そう思えた。
そうやって、とりとめもない話をしている途中のことだった。
「ナマエ」
ふと、いたって普通の調子で声を呼びかけられる。少し振り向いて、何? と返事をする前に――
頬に、口づけされた。柔らかい感触が、はっきりと感じ取れた。
「……え?」
しばらく呆然としていたが――事態を把握すると、みるみるうちに顔に熱が集中していく。
そんな私に対し、ナランチャは少し照れたような顔をしながら、どこか悪戯っ子のような表情をしていた。
「……もう! こ、こんなにいきなりすることないでしょ!」
「へへ……悪り。カワイくってつい」
彼のその言葉に、さらに私は真っ赤になる。恥ずかしかったし、照れくさかったけど――何より、嬉しかった。これが、私のとって、生まれて初めてのキスだと思えたから。
「おかえしっ」
「わわッ」
私も仕返しだと言わんばかりに彼の頬に向かって口を向ける。少しバランスを崩しかけたが、無事に頬にキスすることができた。それがとんでもなく嬉しいと考えてしまうくらいには、私も浮かれているみたいだ。
ナランチャは暫く呆気に取られていたようだが、やがて、柔らかく笑った。
「……へへっ。なんか楽しいな、こういうの」
「……うん、そうだね」
そして何となくお互いの目を見て、照れながら笑い合う。
しばらくそんな時間を過ごしたが、お互いちょっと照れくさかった。
だけどそれが、確かな幸福だと。これが私たちの道なのだと、そう思った。
嗚呼。気がついたら私は、自分の道を見つけていた。
そして私の目の前には、愛しい人がいた。
夕暮れという時間帯のせいで辺りは薄暗かったが、同時にそれは、彼のようなとても綺麗な色だと感じる。
――私の名前は、ナマエ・ミョウジ。私の好きな人の名前は、ナランチャ・ギルガ。そして、大事な仲間である、ブローノ・ブチャラティと、パンナコッタ・フーゴ。
私はこれから、四人一緒のチームで、大切な人たちと共にあるのだ。
ヒーローと共に。好きな人と共にあるのだ。
「まあ、こうして二人でいるのって――けっこう、いいよな」
「うん。だから、これからもずっと一緒にいようね――ナランチャ」
「へへへ、当たり前だろ?」
そう言って、彼は笑う。夕陽に溶けるようなその笑みに、私も笑みで返した。
これから、私たちにはどんな未来が待ち受けているのだろう。もしかしたら、チームには近いうちに新しいメンバーが入ってくるかもしれないし、そうでないかもしれない。
ただ――どんな未来であれ、彼らと共に、同時にナランチャの隣で、楽しく笑って過ごせればいいなと、そう思った。
私の、新しい人生は、新しい旅は――これから、始まるのだから。