41.想い綴り

 本日二回目の、ナランチャの家。ついさっき勝手に飛び出してしまったこともあり、先ほどとは違った意味で緊張する。
 思い切って、インターホンを鳴らしたが――今回は、ナランチャは出てこなかった。
「……ナランチャ? いないの?」
 こう呼びかけてみても、返事はなし。急に、不安な気持ちに駆られる。
「さっきのこと、どうしても謝りたいの」
 こう言ってみても、返事はなし。留守にしてしまったか、それとも拒絶されてしまったのか。
 思わずドアノブに手をかけて、回してみたが――鍵はかかっていなかった。
 拒否はされていない、と思っても良いのだろうか。唾を飲み込んで、一歩、踏み出した。
「ナランチャ、入るよ」
 そして、そっと足を踏み入れた。家の中から、返事が返ってくることはなかった。


 部屋に入ると、黒い髪の少年が机の上で突っ伏していた。
「ナランチャ? ……寝てるの?」
 一瞬だけ驚いたが、彼は単に寝てしまっているようだった。
 何かと思って机の上を見るとそこには、物が散乱していた。よく見るとそれは、算数のテキストと、丸めた紙のようなものだった。
 机の上の状態から察するに、算数のテキストが散乱していたのは、一緒にしまい込んでいた、何かの紙を引っ張り出すためだったらしい。
 何かを書いて、消して、丸めて捨てて、そしてまた書いて……ということを繰り返したことが見て取れる、紙くずが多くあった。
 そんなに必死で何を書いたのだろう? 彼は私が飛び出してから、何を思い、何をしていたのか?
 彼の寝顔を覗き込む。子どものような表情で、少し寝苦しそうだった。
 このまま起こすべきではないのだろうとは思ったが、そうなると私は次に何をすべきか、わからなくなって途方に暮れた。
 その時だった。

 ふと。一枚、ナランチャの手元に紙があることに気がついた。
 二つ折りの紙。そこには確かに――イタリア語で『ナマエへ』と書いてある。
 あまり上手ではない字で、それでいても確実に。
 それに気がついた途端、心臓が高鳴った。そして、顔が熱くなったのが、よくわかった。
 急いでその紙に手を伸ばす。彼は私に、何を伝えようとしている?
 そして、震える手で開いた。それに目を落とすと、その紙には、至って簡潔にこう書かれていた。
『ナマエ、ごめん。』
 書かれた内容を反芻する。
 そして、その意味を理解した後に、深く息を吐いた。

 嗚呼。これだけの言葉を述べるために、彼はどれだけ、試行錯誤を繰り返したのだろう。
 ――彼も今ごろ、君に謝れなくて悩んでるんじゃあないですかね。
 フーゴの言葉を思い出す。彼は、謝りたいと思ってくれていた。そして、そのために悩んでくれていた。それだけでもわかって、ほっとしたような気持ちになる。私は彼に、許されていないわけではなかった。
 彼が起きたら、私もしっかり謝ろう。彼の勇気に、敬意を表して――
 そう決意しながら、紙の裏面に目を向けた、その時だった。
 刹那――私の中の時間が、止まった。

『好きだ。』
 ――Ti amo.

 紙の裏面には、確かにこう書いてあったのだ。
 突拍子もなく、文脈を無視した、それでいて衝撃的な言葉。
 その文字を見ながら、私はしばらく固まってしまっていた。
 何が書いてあるのか、わからなくなってしまっていた。読めるはずのイタリア語が、違う言語のように思えていた。
 頭の中が、真っ白になってしまっていた――

 そして――この文章に、気付かされたことがあった。
 今まで曖昧だった、自分の気持ちを理解していく。これまで抱いていた感情の答えが、一体何なのか。
 あまり上手ではない文字。ラブレターの書き方を習ったことのない少年のラブレター。
 それを見て思ったのは、どうしようもなく愛おしいと思う感情。
 ヒーローだと思っていた。大切な人だと思っていた。彼のことを知りたいと、自分のことを知ってほしいと、そう思っていた。
 だけど既に、それだけではなくなっていた――
「私も……」
 彼の寝顔を眺めながら、私は呟く。
 どうしようもない気持ちが、心の奥深くから溢れ出していく。
「私も好き、ナランチャ――」

 最初は、ヒーローに対しての漠然とした憧れでしかなかったけど。それがやがて、強烈な憧れに変わっていっていたけれど。
 ヒーローでない、ただの普通の少年である面もたくさん見てきた。知らない面も、たくさんあった。
 それでも知りたいと、そう思うようになっていた。彼は、大切な人であると。日本に行って、彼としばらく離れていて――その気持は、余計に強まったように思う。
 嗚呼。私は、とっくの前から、十七歳の、この世にたったひとりしかいないナランチャ・ギルガのことを――好きになってしまっていた。


 気がつくと、自分の目から涙がこぼれていたのがわかった。自分でも何故なのか、いまいちよくわからなかったが――歓喜の涙、なのだろうか。嬉し泣きというものをしたというのは、少なくともこれまでの記憶の中で初めてだ。
 否、『記憶を失う前』のことなんて、もうどうだっていい。私は、生まれて初めて、嬉し泣きをした。
 初恋をした。
 私の初恋は、紛れもなく、ナランチャ・ギルガに対してのものだった。


 心を落ち着かせるために、深呼吸をする。伝えたい気持ちは溢れんばかりではあるが、兎にも角にも、まずは酷いことを言ってしまったことについて、謝らなくてはいけない。
 しかし、ナランチャは未だに眠っている。どうしたものかと少し考えて――やがて私は、机の上に転がっていたペンを手にとった。
『ナランチャ、さっきは酷いことを言ってしまって、こちらこそごめんなさい。』
 手紙には、返信を。ナランチャが書いた文章の続きに、私の気持ちを連ねていく。
 こんな感じでいいだろうか――と頭を捻ったが、とりあえずはこれだけにしておこうと思った。後で、口で伝えたいことを伝えればいい。
 そして。書くかどうか迷ったが、これも書かねばなるまい、と意を決し、こう書いた。
『私も、好きです。』
 ラブレターにも、返信を。
 書いてるときは、少し恥ずかしかった。照れながらペンを置いて、逃げるように部屋に行った。


 私が二週間程度寝泊まりしていた物置部屋は、あのときのままだった。寝ようと思えば、毛布を敷いて寝れそうである。
 しかし、荷物を広げようとは思えなかった。今の私は、ナランチャの家に寝泊まりすることについて、彼の許可をとれていない。
 今はここに来るしかないからここに来たけれど、駄目だと言われる可能性も、ゼロではない。ナランチャは私に謝ってくれたが、それとこれとは話が別だ。
「…………」
 しかし、ナランチャもいつ目覚めるかわからない。かといって、起こすのも、勝手にくつろぐのもためらわれる。
 ただ、時差ボケのこともあって、眠い。少し眠るくらいは許してくれないだろうか――と思いながら、体育座りで眠りについた。
 体勢こそ落ち着いて眠れるものではなかったが、少なくとも、日本の家よりは安心して眠れることができた。
 これがナランチャの家で眠る最後になりませんように。そう思いながら、深い眠りに入った。

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