39.すれ違い
見慣れたはずの道を、ひとり歩く。もうこの道を歩くことはないかもしれないと思っていたのに、変な気分だ。
今までも、ナランチャの家に一人で戻ることは、なかったわけではないけど――何故だか、すごく緊張しているみたいだった。
辺りの風景を見ながら歩いていると、いつの間にかナランチャの家にたどり着いていたことに気がついた。
不意に、心臓の音がうるさくなる。
それをかき消すように、思い切ってインターホンを鳴らした。今までは、ほとんど常にナランチャと共にこの玄関をくぐり抜けていたから、こんな改まったことをするのは初めてだ。
扉が開くまでの時間が、やけに長く感じられた。
「はァーい」
やがて、気の抜けるような応答と共に、扉が開いた。そして、何気ない様子で家の主が姿を現す。
体感的には、かなり久しぶりの再会だ――その姿を見て、胸が高鳴ったのを感じた。黒い髪。見慣れた顔。その姿は確かに、私の知っている彼だったから。
ナランチャは、相手が私だと気がつくまでは、普段通りの表情をしていた。
しかし私の姿を確認した途端、息を呑んだ。
「どうして、ナマエがここに」
どこか唖然とした様子で、ナランチャは呟いた。
ナランチャは、私が戻ってくることを知らされていなかったのか。それとも、私がこの家に戻ってきたことに驚いたのか。
「えっと。久しぶり、だね」
そんな彼に何か声をかけようとして、最初にこぼれ出たのはこんな言葉。
ナランチャに話したいことは、多くある。それはもう、いろいろと。
しかし、彼に、何から伝えるべきなのか、それはわからなかった。日本で起こったできごとを全て話したいような、だけど言葉にできないような、もどかしい感覚を覚える。
だが、私が次の言葉を考えつく前に――狼狽した様子で、ナランチャが先に口を開いた。
「ナマエ、なんで……なんで、戻ってきたんだ?」
予想もできなかった、その言葉は――少なからず、私に衝撃を与えた。
「戻ってきちゃ、ダメだったの?」
彼の言葉に、心の中がざわめくのを感じた。
自分の持つ感情が何なのか、はっきりとは理解できなかったが――撃たれたような強いショックを受けたことだけは、確かだった。
「えっと、えっとよォ」
ナランチャがまだ何か言いたげだったので、私は彼の言葉の続きを待った。自分から何かを言うのが怖かっただけかもしれない。
それくらい、彼の様子は、どこかおかしかった。こんなに憔悴しきった表情は、今まで見たことがなかった。
「君は、日本で、君の家族と、一緒に暮らせたんじゃあ、ないのか? こんなところに戻ってこなくても、平和に、幸せに、暮らせたんじゃあないのか? なあ、ナマエ、君は――どうして、戻ってきたんだよォ」
「……ッ」
ナランチャの口から飛び出てくる、無数の言葉たち。それに私は、畳み掛けられているような、責められているような錯覚を覚える。
強い悲しみのようなものが、私の心の奥底から湧いてくるような感覚を覚える――
「オレが、君に対して思っていたことは――間違っていたのかな」
ぽつり。ナランチャは独り言のように言った。
そこで、私の中の何かが切れた。
ナランチャが私に対して、何を思っていたのか。それの何が、間違っていると思ったのか。
それはわからない。知らない。それだけではなく、私は、ナランチャのことを、ナランチャが何を考えていたのかを、なんにも知らない。
そして、それと同時に――
「そんなこと――あなたは私のこと、何も知らないでしょうッ!」
――ナランチャは、私のことをなんにも知らない。
そんな思いがこらえきれず、私は思わず、声を張り上げてしまった。
私はナランチャのことを何も知らない。同時に、ナランチャは私のことを――知らない。
それが何だか、無性に悲しかった。
私の中にあったのは、理解されなかった悲しみと、理解できない悲しみが混じり合った、深い激情でしかなかった。
「私だって、あなたのこと、何も知らないのに――」
――ナランチャのことを、知りたいのに。
一瞬の沈黙。こんなに大声を出したのは、今までの記憶の中でも初めてかもしれない。
息を切らして、うつむく。そのままナランチャの顔を見ることができなくて、顔を上げることはできなかった。
だが、そのまま――彼が私に何かを言う前に、うつむきながら言葉を絞り出した。言ってしまった。
取り返しのつかない、決定的に後戻りのできない言葉を。
「ねえ、ナランチャ。さっきの言葉、……私が、ネアポリスに戻ってきてほしくなかったってこと?」
こうやって言葉に出しながら――私がショックを受けていたのはこのことを恐れていたからなんだ、とやけに冷静に感じた。私は、ナランチャに拒絶されることを、何よりも恐れているのだと。
しかし、今、私は、自分からナランチャのことを拒絶しようとしている。
受け入れたいのに、受け入れてほしいのに。自分にとって大切な人を、自分から拒絶してしまいそうになっている――
「……私と一緒にいるのは、もう嫌ってことなの?」
「そういうつもりじゃねえッ! そういうつもりじゃ……」
震え声が響く。必死な気持ちは、十分伝わってきているというのに。
なのに――私の言葉は止まらない。止まれなかった。
「じゃあ、……どういうつもりだったの?」
「それは」
そこで初めて、ナランチャの表情を見た。悲しそうな、苦しそうな――暗闇の中であがくような、そんな表情だった。
ナランチャは何か言いたげだった。言葉にしたいのに言葉にできない、伝えたいのに伝わらない。お互いが、そう思っていることは、わかっていたはずなのに。
だが――私は止まらなかった。自分で自分を止められなかった。自分の中の激情を、どうしても、抑えつけることができなかった――
「……いいよ、もう知らない。知らないからッ!」
そう言って私は、ナランチャの家を飛び出してしまった。宛もなく走り始めてから、自分が涙を流していたことに、やっと気がついた。
同時に、私が家を飛び出した直後に見えたナランチャの顔を思い出して、胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。
あの悲痛な表情は一生忘れることがないだろうと、そう思った。
走って、走って。気がついたら、見知らぬ公園に立ち寄っていた。辺りの光景も全く目に入らないままに、適当に腰掛ける。
「…………」
息を整えて、曇り空を見上げながら――ふと、思い出したことがあった。
前にも、こんなことがあったと。結局私は彼のことを知らないのだと、思い知らされたことは、何度かあった。
九九の練習をしていたことを隠されていたこと。そこから、小学校もまともに通っていなかったのだろうと推察されるが――彼の口からそれをはっきり言われたことは、なかったように思う。
それに――あの写真。破られた写真。見知らぬ少年に囲まれた、髪を金に染めたナランチャの写真。
彼の過去。孤児になって、それからブチャラティに救われたことは、なんとなく聞いていたけれど――それ以上のことを聞いたことはなかった。彼の過去に何があったのか、――私は、全く知らない。知りたいのに、なんにも知らない。
『なんで、戻ってきたんだ』
『オレが、君に対して思っていたことは――間違っていたのかな』
さっき言われた、彼の言葉を思い出す。大きくショックを受けたけれど――それに加え、彼の言葉に気になる点もある。
ナランチャは私に対して、何を思っていたのだろう、何と感じていたのだろう――私は、知らない。
――結局私、ナランチャのこと、結局何も知らないんだなあ。
その結論に至ると、どうしても心の奥が痛むような感じがした。
……ナランチャの口から、彼自身のことを聞きたい。彼のことを、もっと知りたい――今になって、どうしてこんな感情が溢れ出るのだろうか。
曇り空を見ていても気分は晴れそうになかったので、私は目を瞑った。すると、彼の言葉が脳内に反響した。
『どうして、戻ってきたんだよ』
『君は日本で、君の家族と、一緒に暮らせたんじゃあないのか?』
『こんなところに戻ってこなくても、平和に、幸せに、暮らせたんじゃあないのか?』
――違う。
さっきは、感情に任せて大きな声を出してしまった。
だけど私は、そうすべきではなかった。冷静に、私の気持ちを伝えるべきであった。
私にとっての正しい道は、この街に戻ってくることだけだ。私は、ブチャラティたちと共に過ごしたい。そして。
ナランチャと、一緒にいたい。
しかし、ナランチャがそれを理解できなかったのは、ナランチャが、私の過去を知らないから。
私自身も、日本で初めて知った私の居場所を、彼に伝えたい。
私の居場所は、この街であると。私の居場所が、ナランチャの隣であることを、願っていることを――
そして、ナランチャのことを知りたいのと同時に、彼に私のことも知ってほしい。
そう思うと、また心の奥が痛いような気がした――この気持ちは、本当に、何なのだろうか。
私はそうやって、しばらく呆然としていた。多くの感情が、私の中を渦巻いている。
知りたい、知ってほしい、という願い。そして――感情に任せて言いすぎてしまったことへの後悔。
私の言葉で、彼を傷つけてしまったのかもしれない。
思い出すのは、あの悲痛な表情――それを思うと、自分の胸も締め付けられるような感覚になる。ただ、謝りたいと思う。
傷つけてしまったかもしれないことを謝りたい。そして、あなたのことを知りたいということを伝えたい。私のことを知ってほしいということを、伝えたい――
――だけど、謝り方がわからない。記憶上の、初めての喧嘩だからだろうか。それとも、私が臆病なだけだろうか。
ナランチャは、今、何を思っているんだろう。彼は、怒っているだろうか。
――許してくれるだろうか。また、一緒にいてくれるだろうか。
もし、許してくれなかったら。もし、二度と口も利いてくれなかったら――私は、これからどうしたらいい?
途方に暮れて、曇り空を見上げる。今にでも雨が降りそうだと、そう思った。