38.決意表明
「……ただいま」
イタリアという国に降り立って一番最初に出てきたのは、こんな言葉だった。
無意識のうちに漏らした言葉を反芻し、思う。
そうだ。私にとっての居場所は、最初からこの街だった。
この選択はもしかしたら、他の誰かから見ては正しいものではないかもしれない。ただ、私にとっては、この街、ネアポリスにいることこそが、正しいと信じる唯一の道だった。
帰ってきた。何の憂いもなく、自然とそう思えた。
日本を発つ前に私は、ブチャラティに電話をしていた。
ジュリオチームの最後の一人を始末したということを伝えるため。そして、『今から戻ります』と、それだけを伝えるために。
「そうか」
もちろん、電話越しでは彼の表情はわからない。声からも感情を読み取ることはできないくらい、彼はいつも通りの声色だった。
帰ってきた私に、彼は、彼らは――何と言って出迎えるだろうか。電話で直接言葉を交わしたブチャラティでさえ、戻ってきた私にどうやって私に言葉を投げかけるのか、掴めない。
それに。
「ナランチャ……」
――元気でな。
そう言ってくれた、故郷での私の幸せを願ってくれた人は、私のことをどのように出迎えるのだろうか。
不安に思う気持ちが無いわけではない。ナランチャは、私がこの国に戻ってギャングとして暮らすことを、望んでいなかったようだったから。
ただ、そうであっても、私の内面はとても穏やかだった。
それはきっと、私の心境としては、この国こそが故郷であったから。
久方ぶりに故郷に帰る旅人のような、そんな気分だったから。
空港から出て、少し辺りを見回す。すると、見慣れた人物がそこにいた。
出迎えてくれたのは、フーゴだった。彼は私のことを見つけると、軽く息を吐いたように見えた。
そんな姿を見て、本当にフーゴだ――と、そう思った。そして、なんとなく嬉しくなる。
何だか、随分久しぶりのように思えた。もう会えないかもしれない、そう思いながら別れたのだから、ある意味当然なのかもしれないが。
だからだろうか。彼に対して何と声をかけるべきか、少し考えてしまった。
彼は特に、私が戻ってくることにも戻ってこないことにも、賛成も反対もしていないようであったけれど、それでもだ。
「戻ってきたんですね、ナマエ」
そんな私を咎めるでもなく、怒るでもなく、フーゴは淡々と言った。私が何か言う前に、フーゴは言葉を続ける。
「ああ、ブチャラティなら仕事でいませんよ。たまたまぼくの手が空いていたので、ぼくだけ迎えに来る形になりました」
「そう。でも、フーゴだけでも迎えに来てくれて嬉しいよ、ありがとう」
「まあ、これも仕事ですから。仕事で外国に行ってきた仲間の出迎えくらいしますよ」
フーゴは、私がもしかしたらこの国に戻ってこなかったかもしれないことには、一切触れようとしない。ただ、仕事仲間が戻ってきたことを、当たり前のように捉えている。
それが、なんとなくありがたいような、そんな気がした。
「さ、そろそろいつもの場所に戻りましょうか。もう少しで、ブチャラティも用事を終えて戻ってくる頃だと思うので」
私が何も言わないうちに、フーゴはこう言った。歩き始める彼に、私は慌てて着いていく。なんとなく、辺りの光景を見回しながら。
「さ、乗ってください」
こう言いながら車に乗り込んだフーゴに続いて、私も助手席に乗り込んだ。
帰ってきたのだなと、ただそう思った。
運転席に座るフーゴの隣で、私は窓の外の景色を眺める。フーゴは私よりも年下であるはずだが、車の運転技術は申し分ないようだ。
「えっと、フーゴ……その、ナランチャは?」
出発したのを見計らってから、恐る恐る、聞いた。
ブチャラティは仕事中。フーゴはここにいる。しかし、ナランチャは今、何をしているのか。
私の問いに、フーゴは少しだけ考える素振りを見せて、それからため息をついた。それは、直接的な回答ではなかった。
「……まあ、後で会いに行ってやればいいんじゃないですか。君がいなくなってから、ちょっぴり寂しそうでしたし」
フーゴの言葉に、思わずドキリとした。
……ナランチャは、私がいなくなって、寂しかっていた。その事実に、思わず嬉しく感じてしまう自分がいた。
だが――同時に、こうも思った。
私がいなくなったとき、彼らはそれぞれ、何を思っていたのか。何を願っていたのだろうか。
彼らは、私が戻ってこないで日本で平和で暮らすことを願ってくれていたのか、私がいなくなって本当に寂しがってくれたのか。それとも、何も思っていなかったのか。
そう思うと、言葉が詰まって、しばらく口を開くことができなかった。
「……フーゴは、怒らないんだね」
そんな挙げ句飛び出た言葉は、こんな言葉。それに対し、フーゴはさらりと、何でもないことのように言う。
「別に、怒る理由もありませんし。ブチャラティだって、怒ってはいないと思いますよ。君がこの道を選んだのなら、それでいいじゃあないですか。ただ、この道を選んだだけの責任は、果たすべきだとは思いますがね」
彼はそこで、静かにため息をついた。
このように考え込むような素振りを何度も見せたフーゴを見て、私は想像する――彼の視点から、私はどう見えているのか、ということを。
急に見知らぬ人間がチームに入ってきて。それから、故郷に戻るのかと思いきや、結局帰ってきて。
そうだ。私は結局、彼らには迷惑ばかりかけてしまった。
だとしたら、私がまず言うべきことは――それは、曖昧な言葉なんかではない。はっきりと示してみせねばならないものだ。
「いろいろとお騒がせして、本当にごめんなさい」
まず、頭を下げる。
それから、思い切って、続きの言葉を紡いだ。
「それでもこれからは、この仕事をして生きていく覚悟は、できています」
フーゴはハンドルを握りながらも、少し意外そうな顔を見せた。そして、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「……そうですか」
フーゴは多くは語らなかったし、私もそれ以上のことは言わなかった。今の段階ではこれで良いのだと、そう思えた。
いつものレストランに行くと、ブチャラティは既にそこで待っていた。その姿を認め、私は思わず唾を飲み込んでしまう。
そしてブチャラティは私の姿を認めると、こちらをじっと見つめてきた。それから、重々しく口を開いた。
「……戻ってきたのか」
「はい」
私も、しっかりと見つめ直す。彼の視線に、揺らぐことのないように。
「覚悟は、できているんだな」
「はい」
彼の言葉に私は、しっかり頷いた。
そして、自身の決意を、誓うように告げた。
「私は……このネアポリスで、あなたの下で働きます。私の居場所は、ここです。私は、そう確信しました」
ブチャラティはしばらく無言だった。目を伏せる。それから――やがて、顔を上げた。
「そうか」
彼はため息は吐かなかった。ただ、ほんの少しだけ、口角を上げていた。
その表情にどれだけ複雑な感情が込められていたのか、私にはわかるはずもなかったけれど。
「ならば、改めて君をうちのチームに迎え入れよう、ナマエ・ミョウジ。それが君が決めた道だというのなら、オレはもう、何も言うまい」
彼の言葉に、肩の荷が降りたような気分になった。自分でも気がついていない部分で、気負っていた部分があったらしい。
認められた――そう思った。私は改めて、彼らの仲間となるのだ。
「さて、仕事のことはまた明日以降話そう。今日のところは疲れているだろう、早めに休むといい」
「えっと……じゃあ、ナランチャの家に、行ってもいいんですね?」
ブチャラティが告げたので、私は、慌てて質問した。彼は少し考え込んだ素振りをみせた後に、結局こう言った。
「……そうだな。少なくとも、しばらくはナランチャの家に住むのがいいだろう。もちろん、二人がそれでいいのなら、だが。ただ――君がチームに正式加入した今、誰かの家に居座り続ける意味はない。そのうち安い物件を紹介してもいいが」
その言葉に、ひとまずホッとする。何だかんだナランチャの家が一番落ち着くのだと、日本の家で実感したところだったから。
ただ、そこからのブチャラティの言葉も、納得させられるものはあった。
私はもう、日本に戻ることは決してありえない。この街で、この仕事を続けていくことに決めたのだ。誰かの家に一時的に住む理由は、理屈上は存在しない。
しかし――自分自身の感情としては、彼の家に住む理由は、充分に存在していた。
「いえ、いいです。しばらくは、ナランチャの家に居たいです。……居させてください」
私が力強く言うと、ブチャラティはちょっとだけ、意外そうな顔を見せた。
「そうか? まあ、それを決めるのはオレではなく君とナランチャ自身だ。二人が納得しているならそれでいいが」
その言葉にはっとする。私は、当然のようにナランチャと一緒に居たいと願った。だけど、ナランチャは――?
私がナランチャの家に住むようになったのは、最初に、私をしばらくは住まわせようと、ナランチャ自身が申し出たからだ。彼がどうしてそんな申し出をしたのか、正直よくわかっていない。
――今の彼の気持ちとなれば、尚更。
結局私は、ナランチャ自身と話をしなければならないのだ。そう思って、私はブチャラティに聞く。
「えっと、ナランチャは、今どこにいるんですか?」
「ン……。あいつは今日は休みだから、家にいるんじゃあないか」
「それじゃあ、行っていいですか」
思わずせっつくような態度になった私に、ブチャラティは何故か微笑ましいものを見るような目をしながら、穏やかな声で告げた。
「ああ、今日は早めに休めよ。そして、明日から気合を入れ直してこい」
「はい!」
ブチャラティに別れの挨拶を切り出して、急いで帰ろうとした。ナランチャとの再会を、少しでも早めたかったから。それほど、私はナランチャに早く会いたくって、彼のことで頭がいっぱいになっていたようだ。
だけど――
そうしているうちに、意外な方向から声がかかってきた。その声の持ち主は、フーゴだった。
「……ナマエ」
「え? ……どうかした?」
少し驚きながら彼の方を向く。彼は出雲通りの表情ではあったが、何故か端切れが悪そうにこう言った。
「その……いえ、何でもないです」
「……?」
彼は何かを言いかけたが、結局詳しいことは何も言わなかった。
何だったのだろう? 疑問に思いつつも、私は問いただすようなことはしなかった。
それでも、私はなんとなく後ろ髪を引かれるような思いになっていたけど――結局、この場を立ち去った。
ナランチャに再会するために。ナランチャと話をするために。ナランチャの家に帰るために。
私にとって、一番落ち着く場所に帰るために。