36.黄金の欠片
なんだか、奇妙な気分だった。
空条承太郎――こんなにも早く、私がイタリアに来るきっかけとなった人に出会えるなんて。
私は彼に言われるがまま、近くにあった喫茶店に入り、テラスに腰をかけた。
「あなたが、空条承太郎、博士」
「そうだ。わたしのことは、覚えているのか?」
「……いいえ。話に聞いていた、だけです」
空条承太郎。
初めてその名を聞いたのは、イタリアで出会ったスピードワゴン財団と名乗った男が、空条博士という人物の司令を受け、私のことを探させていたと知った時。
そして、康一くんとの会話の中にも、度々出てきた男。
『記憶を失う前の私』に何か依頼をして、私がイタリアに行く原因を作った人物。その人が今、私の目の前にいる。
空条承太郎の方も、私に聞きたいことがあると言っていた。だが私だって、この人に聞きたいことが、山ほどあった。
「それより、わかっていたんですか? 私が、記憶喪失になっていたことを」
「そうなっている可能性はあると、予想はしていた。財団員のひとりが、『苗字名前』という人物についての記憶のみ、きれいさっぱり忘れて逃げ帰った時点でな」
承太郎は、私があの男の記憶を奪ったことに気がついていたらしい。そしてそこから、私が記憶を失っているかもしれないということさえも、予想していたの――この男はかなり頭が切れるらしいと、無意識的に警戒する。警戒すべきなのかは、よくわからないが。
「あなたが、スピードワゴン財団とやらに私のことを探させていたのは、依頼のことがあるから、ですか」
私が聞くと、彼は頷いた。やはり、彼の依頼で、私はイタリアという国へ行ったのだった。
「……君への依頼は、夏休みの間だけで頼んでいたんだ。しかし、九月に入っても、君からの連絡が全く無かったので、不審に思ってな」
「なんというか……すみません」
「謝る必要はない。君が無事だったのなら、それで良かった」
承太郎のその言葉に、何とも言えない沈黙が流れる。
それでも私は、口を開いた。まだ、聞かなければならないことがあるのだ。
「ええっと、依頼って、この『写真に写っている女』に、関係あります、よね」
だから私は、『写真』を取り出した。『記憶を失う前の私』が写真の裏面に『この女は生きている。』と書いた、例の写真。
どんな依頼だったのかは、いまいちパッとしない部分であると思っていたが――しかし、空条承太郎は答えを出した。
「……『君』は、依頼を果たしたんだな」
彼は静かに息を吐いた。それは、彼のどんな心情を表しているのか、それはわからなかった。
「この女を、イタリアで探すことが――私があなたに、依頼されていたこと」
そのために、私は――イタリアに向かったのか。
きっと、そこで運命が変わるなんて、考えもせずに。
「そうだ。そのため、ある人物に、君にイタリア語を話させることができるよう頼んだが、まあその話はいいだろう。ともかく、その女が生きているかどうか、それだけで良かった。できれば、記憶も覗いていてほしいとは思っていたが」
だから彼は、私に頼んだのか? 人の記憶を覗くことの出来る、私に。
しかし、私には女の記憶を覗いたなんて、そんな記憶は残っていないわけだが――
考え込んでいる私に、空条承太郎はひとつ、何気なく質問を放った。
「君が依頼を果たしたというのなら、もう一つ聞きたいことがあるんだが。写真に写るその女性に、子はいたか」
「いなかった、みたいですけど」
それに対し私は、本当に何気なく、ぽろっと即答していた。口に出してしまってから、自分自身に対して疑問が生じる。
覚えていないのだから、わかるはずもないのに。何故、こんな言葉が、口をついたのだろうか。
彼への質問に誠実に答えるのなら、『知らない』と言うのがベストアンサーなのに、何故か私はそうしなかった。しかも、それについての罪悪感も、特に感じられなかったことに、逆に不思議に思った。
「そうか。子がいないのならいないで、それでいい」
そんなにあっさり信じていいものだろうか。否、本当に信じているのか? それとも、『記憶を失う前の私』は、それほど彼に信用されていたのか?
本当に女性に子がいなかったかは、実際のところ何もわからない。もしかしたら私とその女性の間に、何かあったのかもしれない。
だけど、私はあえて何かを言うつもりにはなれず――結局、全然違うことを質問した。
「その、その女の人って、結局何なんですか?」
すると承太郎は、少し迷ったような素振りを見せた。しかし、彼はそれに答えず、話の切り口を変えてきた。
「それより、君の方も、わたしに聞きたいことがあるんじゃあないか。……記憶喪失となった、君には」
改めてそう言われると、何を聞けば良いものか、少しだけ迷った。
しかし、思い直す。私がこの国で知りたいことは結局、ただひとつだけだ。
「……私は、私のことを知りたい。特に、この国に、私の居場所はあるのかを。私は、それを知りたい」
私が知りたいのは、私がこの国に来た理由は、これしかなかった。しかし、承太郎はすぐには答えなかった。
「……記憶を無くした君は、二ヶ月も経って、今になって日本に戻ってきた。今になって、君はそれを知って、どうするつもりなんだ」
彼にこう言われても、私が知りたいと思っていることは、変わらない。
「私は、日本には留まらないかもしれない。しかし、日本で一生を過ごすかもしれない。それを見極めるため、それが必要だから」
だから、正直に言った。
少しの間、沈黙が流れたが、承太郎は仕方ない、という素振りで息を吐いた。
「……やれやれ。では先に、わたしの知る事実を言っておこう」
そこで彼が言った言葉は――私が全く予想していなかった、意外な事実。
「わたしは、君がこの国に戻っていないと聞いて、仗助や康一くんに話を聞いたが、彼らは不自然なほどに君のことを何も覚えていなかった。わたしと話すうちに、少しは思い出していたようだがな」
「どういう、こと?」
康一くんの他に知らない名前も出てきたが、それより、彼の話した内容のほうが気になった。
この町で私と知り合いであっただろう人たちが――私のことを、覚えていなかった? 私の友人とまでは言わずとも、知り合いであったはずなのに?
「君が覚えていないというのなら、わたしが推測したことを話すしかないのだろう。君のことを、君に教えるというのも、奇妙な話だが」
承太郎は、淡々と言った。それが私にどれだけの衝撃を与えたか、彼が理解しているのかは定かではないが。
「おそらく以前の君は、この街にいる知り合いほとんどから、自分についての記憶を奪ったんだ。おそらく、君のご両親と、わたし以外からな。君がわたしの記憶を奪わなかったのは、依頼を放り出す真似はしたくなかっただけだろう。私が知る『君』は、そういった性格だった」
にわかには信じられないような、彼の言葉。何故、私が彼らの記憶を奪う必要がある、と不審に思う気持ちが先立つ。
しかし、突拍子もないとも思える彼の言葉に、納得しかけている自分もいた――今思えば、康一くんが私について話すとき、常に端切れが悪かったのは――私たちが元来親しくないから、というだけではない。
単純に、私のことをほとんど忘れてしまっていただけなのだろう。それでも私のことを少しは話せたというのは、承太郎が康一くんなどに、私のことを聞いて回ったから、少しは思い出せた、というだけなのだろう――
「……どうして、『私』は、この町の知り合いから、記憶を奪ったの?」
私は、承太郎に問うように自問した。自答する前に、承太郎の方が答える。
「さあな。そこから先は、君にしかわからないんじゃあないか。最も、君自身にもわからないんだろうが」
彼はそう言っていたが、承太郎と私は、同じことを想像しているのかもしれない。
もしかしたら、『記憶を失う前の私』は、最初から日本に戻るつもりはなかったのかもしれないと――
しかし、そう考えたとしても、解せない部分はあった。
「……ちょっと待って。……親友。親友は? 私にとっての親友からも、私は記憶を奪ったの?」
『記憶を失う前の私』とは、親友という存在も捨てる、薄情な存在だったのか?
それに対し、承太郎は、目を伏せて答えた。その言葉は、今までの承太郎の中で一番、衝撃を与えた。
「君の親友は、もうこの世にいない」
言葉を失う私に、承太郎は淡々と、彼の知る私のことを教えてくれた。
『記憶を失う前の私』にとって、親友と呼べた唯一の人物が、吉良吉影という連続殺人鬼に殺されたということ。
連続殺人鬼。平和だと思っていた街には似つかわしくない、物騒な響き。
「スタンド能力を持つ殺人鬼に、わたしたちは立ち向かった。それは、君も同じだった」
……まさか、トラウマって、それ? 私がトラウマを呼び起こされて、記憶を失った、根本の原因。
私は、殺人鬼と因縁をもっていた。連続殺人鬼。それなら確かに、何かしらのトラウマを持っていてもおかしくはない。
おそらく、当時は平凡な少女だった私。そして、殺された親友。それから、ある日突如現れた、スタンド能力。それを使い、殺人鬼に立ち向かった――
私の知らない、私の記憶。
そんな記憶があったとしたら、ジュリオにそれを呼び起こされて記憶を失ったとしても、不思議な話ではない。
ふと、目を閉じてみる。そんな光景が、見えるのではないかと思って。
しかし、何も見えなかった。
ただ、雨の音がした気がした。死の匂いが、そこにある気がした。
空条承太郎の知る『私』。それは、唯一の親友と呼べる人物を失った上に、日本の知り合い全員から記憶を奪った、孤独な人物であった。親友を失ったことにより、『彼女』には行き場がなくなっていた。
しかし、依頼のこともある承太郎を除いても、どうやら親からは、記憶を奪っていないらしい。そうでないと、私の荷物が、そのまま家に置いてあるはずがない。
『記憶を失った私へ』なんてタイトルの、冗談じゃないと言いたくなるような手紙なんて、置いているはずはない。
ならば――
「君が、この国に居場所があるかどうか、それは君が決めることだ。君がこの町を飛び出すことを決めたとして、おれはそれを止めるつもりはない」
承太郎の言葉に、はっと顔を挙げた。
そうだ。私は今の段階では、自分の道を判断することはできない。やはり、親とは話さなければならないだろう。――むしろ、親以外に話す人がいない、と言うべきだろうか。
私は、静かに決意する。そんな私に、承太郎は息を吐いた後、奇妙なことを言い始めた。
「だがしかし、君がどこに行くのであろうと、忠告だけはしておこう。君のこれからの人生で、そんなことが起こりうるかはわからないが――DIOという存在と関係がある事には、なるべく関わり合いにならない方がいい。とくに、君は関わるべき人間じゃあないだろう」
「……DIO?」
突然出てきた言葉に、思いがけず目を開く。しかしその言葉は、どこかで聞いたことのあるような、重たい響きとなって耳にこびりついた。
「君がさっき質問したことの答えだよ。全てを話すことはできないが」
一瞬だけ自分が何を質問したのか忘れていたが、すぐに思い当たった。
写真に写った女性が、いったい何者なのか。今、彼はその質問に答えているのだ。
「例の女性に、子がいなかったとして――DIOの血を引く者は、他にもどこかにいるかもしれないからな。DIOの子が存在するというのなら、おそらくは君と年齢も近い――もしかしたら、関わり合いになるかもしれない。……気をつけた方がいい。これから君が、どこに行くのであろうと」
彼が、ほとんど独り言のように呟いた言葉。
DIOという存在が何者なのかは、教えてくれなかったが――しかし、それでも、彼の言葉は警告として耳に残った。
あの写真の女は、DIOとかいう人物の関係者、なのか。
私は何故か、女に子はいないと答えてしまったわけだが――子がいたのなら、もしかしたら本当に、どこかで関わり合いになるかもしれない。DIOという人物のことが、やけに頭に残った。
それを口に出す気にはなれなかったから、黙っておいたけれど。
「……余計な話をしたかもしれないな。すまない、子がいるかもしれないと踏んでいたから、少し過敏になっていたのかもしれない」
「あ、いえ……」
もしかしたら承太郎は、私が嘘をついているかもしれないということを見抜いた上で、こんなことを言い始めたのかも知れない。
そう思いつつ――ふと私は、こんなことを質問していた。
「もしかして、あなたが今、この日本に来たというのは――その、DIOという人に何か関係があるんですか?」
男は、何も答えなかった。
「その、ありがとうございました、そして、すみませんでした」
何に向かって言っているのだろう。男は特に答えず、立ち去ってしまった。それを見送り、私は『自分の家』に戻る。
嗚呼、私は自分について、色々なことを知った。しかし、結局、何かを思い出したわけではない。何も覚えていない。新しく知っただけだ。
そして、結局私は家族に話を聞いてみるしかないと、そう結論づける。
自分の中にある望郷を求めながら。それがこの町ではないのかもしれないと、漠然と感じながら。