35.彼女からの手紙

 目的地に着いた私は、勘定を済ませてタクシーから降りた。
 そして、私はある家の表札を見る。
 見慣れない家――しかしそこには確かに、『苗字』と書かれていた。

 そこで、恐る恐る、ドアノブに手をかけた。当然、鍵がかかっている。
 心臓の音を聞きながら、荷物の中に入っていた、用途不明の鍵を取り出した。これが多分、私の家の鍵なのだろう。
 これで開いたら、本当にこの家は私の家ということになる。私は、震える手で鍵を回した。
 カチャリ。
 鍵が、開いた。開いてしまった。この家は――正真正銘、私の家だった。


 この家には、今は誰もいないようだった。家族には出会えなかったが、ホッとしたのか、残念に思ったのか、正直なところよくわからなかった。
 ここは、殺風景な風景が広がる、小さな家だった。この家が、本当に私が住んでいた家なのか、全くもって実感できない。本当にここが、私の帰るべき家なのだろうか。知らない人の家に勝手に入ったようで、どうにも居心地が悪かった。
 それでも――おそらく、私の部屋だったものらしき部屋は見付かった。そこも、ひどく殺風景だったが。
 趣味で集めているようなものはほとんど見受けられなかったが、申し訳程度に、CDがいくつか積み重なっている。
 ――これが、私の、『記憶を失う前の私』の好きだった音楽?
 いつかのナランチャとの会話を思い出し、思わずそれを手に取った。CDジャケットには、五人の知らない男性の写真がうつっている。見た感じ、少なくともアジア人ではなさそうだ。裏の曲名一覧は英語で書かれている――ナランチャとの会話には一度も出てこなかったグループだ。
 再生してみようかとも思ったが、それより先に、一枚の写真が目に入った。
 それは、殺風景な部屋にある、たった一枚だけ、大事そうに飾られていた写真だった。

「…………」
 そこに写っていたのは、私の顔と――おそらく、康一くんの言っていた、私の親友であるという少女の顔。その左手にはサンドウィッチが握られており、彼女は幸福そうにそれを頬張っている。
 しかしそれがどうも、心を動かさず、むしろ撮った覚えのない写真に不気味さすら感じた。幸せそうな二人の笑顔よりも、親友と呼べる関係だという少女の手首が、造り物のように美しいことがまず気になったくらいだ。
 この町で、この家で、親に愛されながら、親友と楽しく暮らしていれば――いつか私の記憶は戻り、この写真で、心を動かすことができるのだろうか。
 もう一度、写真に視線を落とす。写真の中の私は幸せそうだが、それがどうも不気味だった。

「……とにかく」
 そうだ。まずは、私の親だという人が帰ってきたら、親と話してみよう。話はそれからだ。
 私が覚えていない親は、本当に、私のことを心配してくれているのだろうか、愛してくれているのだろうか。
 それは、私の記憶がないと伝えても、変わらないものなのだろうか――

 それにしても、部屋には全体的に埃が被っていた。部屋全体は片付いているのに、どことなく薄暗い雰囲気だ。
 机の上には、教科書等がある。まるで、ごく普通の日本の高校二年生みたいだ。
 そう思いながら、部屋の机の引き出しを何気なく開く。しかし、殺風景だと思っていた部屋の中に、少し異質なものが紛れていた。
「……これは?」
 思わず独り言を漏らしながら、それを手に取る。二つ折りにされた紙のようだ。
 これは、手紙? それにしては、宛名などは書かれていないが――そう思い、何気なく中身を開いた。
 そして、思わず息を呑んだ。

『記憶を失った私へ』

 ――これは。
 何ということなのだろう。
 『記憶を失う前の私』は、自分が記憶を失うかもしれないことを、そして記憶を失った私がこの家に戻ってくることを、予測していた。
 どういうことだ、どういうことだ。
 この手紙には、一体何が書かれているのか、彼女はどんな思いで、この手紙を書いたのか――
 震える手で手紙の中身を見ようとした、その時だった。

 ピンポーンと、軽い調子で玄関のベルが鳴った。驚いた拍子で、思わず手紙を落としてしまう。
 一瞬頭が真っ白になってしまったが、どうにか落ち着いて、部屋を飛び出した。
 誰が出るのか、全く予想する間もなく、急いで扉を開く。
 そこにいたのは――


 一瞬、私とその人の間に、沈黙が支配した。
 誰? と、素直に言うわけにもいかない。だが、その人は自分の家族でないような気はしたし、見たところ宅配便のようでもなかった。
「……戻って、きてたのか。苗字名前」
「え、えっと」
 見上げた先の顔は、少し驚いたような表情をしていた。そして、その人は私の名を呼ぶ。
 身長の高い、端正な顔立ちをした、一回りは年上であろう男性。
 彼は、私の知り合いなのか? 私は彼に、どう返事をすべきなのだろう?
 戸惑っている私に彼は、落ち着いた様子で声をかけた。
「……失礼。確認なのだが、もしかして君は――記憶を失っているのではないか」
 ――!
 その言葉に、思わず息を呑む。この人は、私が記憶を失っていることを、何故知っている?
「あ、あなたは……誰?」
 彼は何者なのだろう。思わず警戒してしまったが、彼は気にした様子もなく、静かに答えた。
「……わたしの名は、空条承太郎だ」
 その名前を聞いた途端、私の中で何かが動く。
 空条承太郎――この人が、空条承太郎であるというのなら。
 彼なら、私のことを知っていてもおかしくない。それだけではなく、彼と話すことで何か開けるかもしれない――
「……やれやれ、君のご両親に君の話をしなければ、と思っていたら、まさか君が戻ってきていたとはな」
 彼は少しだけ考えるような素振りを見せた後、静かにこう言った。
「記憶のない君からすれば、何が何だかわからんかもしれないが――ともかく、少し出れないか。君に聞きたいことが、山ほどあるんでな」

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