34.過去を求めて
「名前さん。本当に、日本のことは何も覚えていないんですか?」
康一くんにこう聞かれ、私は肯定するしかなかった。
「うん。この街すら、本当に自分の故郷なのか、あんまり実感なくて。日本語は話せてるけど。……だからこそ、康一くんからも話を聞きたくて」
「……そうですか。といっても、ぼくと名前さんは、その、あんまり仲が良いって言い切れるほどの仲でもなかったと思うので」
康一くんは言いにくそうに言った。察するに、彼と私は、実は会話もほとんどしたこともなかったのかもしれない。
そう考えると、申し訳ないことを頼んでしまっただろうか、とは思った。しかし、今更引き下がるわけにもいかないので、腹を括ることにした。
「じゃあ康一くんは、私と親しかった人とか、そういう人のことも知らないかな」
「うーん、ぼくと名前さんは学年も違いますしね。でも確か前に、親友がいるって教えてもらった、ような」
私の問いに、康一くんは、考え込むような素振りでこう言った。
親友。思わぬ単語が飛び出てきた。そんな存在がいたのなら、今すぐにでも会ってみたいところだが。
「えっと、その親友のことを知っている人っていない?」
「うーん、露伴先生から読み取ってもらえればそれが早そうですけど」
「露伴先生?」
聞き慣れぬ人名に、首をかしげる。
「あ、えーと。なんというか、露伴先生のスタンド能力って、人の記憶を読み取ったりできるんですよ」
「……それは、記憶喪失でも読み取れるのかな?」
「……すみません、だめかもしれませんね」
申し訳無さそうな表情をする康一くんに、逆に私も申し訳ない気分になる。
「謝らなくても。じゃあえっと、他に何か知ってそうな人っていないかな」
康一くんは少し考えたが、やがてため息を吐いた。
「えっと、他は……。すみません、ぼく、名前さんの交友関係よく知らないんですよね。……家族の方が、一番知っているんじゃないですか?」
康一くんの言葉に、今度は私が息を吐いた。
家族。やはり、その結論にたどり着くのか。やはり私は――自分の家に、自分の家という実感が湧かない場所に、行かなくてはならないのか。
少し考え込んでいる私に、康一くんはふと、脈絡もなくこう言った。
「そういえば、確か承太郎さんが、名前さんに対して何か依頼をしていた、ような気がします」
「承太郎さん?」
康一くんの言葉に、私は少し驚いた。彼の口ぶりからすると、私は、その承太郎という男から依頼されてイタリアに来たのだろうか?
確か、前にも、そんな存在のことを聞いたことがあるような気がするが――
「空条承太郎さんだよ。それも、思い出せないんです?」
「空条、承太郎」
少し考えて――思い至った。
私のことを探しているという、スピードワゴン財団と名乗った男に、私のことを探させた人物の名――空条博士。
その空条博士と空条承太郎という存在がやっと、繋がった。手がかりのひとつを手に入れ、視界が開けたような気がした。
「承太郎さんも、ちょうど今こっちに来てるみたいだし、何かわかるかもしれませんね。何の用で来たのかまでは、知りませんけど。少し、話す時間くらいはあるんじゃあないですか?」
康一くんの言葉に、私は頷いた。私が空条承太郎に依頼されてイタリアへと向かったのなら、私はその人にも会わねばならないだろう。これは思わぬ収穫だった――その人物からの依頼を無事に果たせたと言えるかどうかは、今の時点ではわからないけれど。
私が彼からの情報を脳内で整理していると、康一くんは少し、申し訳なさそうに呟いた。
「……ぼくが知っている名前さんについての情報は、これくらい、でしょうかね。すみません、大した情報じゃあなくって」
「ううん、助かったよ。ありがとう」
私は、彼に素直に感謝した。――彼は覚えていないが、ファリーナの件で助けられたことも含めて。何もお返しができず、かえって心苦しいくらいだ。
それにしても、私は結局、自分のことを知るために家族に会うしかないのだろう。それから、可能であれば、親友と呼べる存在、それから空条承太郎という存在にも。そこから私は、日本で暮らすべきか、イタリアに戻るべきかを、決めねばならないのだ。
――君の親も心配しているだろう。親とはそういうものだ。
ブチャラティの言葉を思い出す。家族が心配してくれているというなら、私の親友と呼ぶべき人物が私のことを待っていてくれているというなら、きっと私は、日本に住むしかないのだろう。
人を殺したことなんて忘れて、異国の地でギャング組織に入っていたことなんて忘れて。私は自分のいるべき場所にいるべきなのだろう。
この町に、私の居場所があるのなら――私は、あの場所には戻れないのだろう。あの、イタリアのあの場所は、あそこ以外に居場所がある人間にとっての居場所ではないのだから。日本に私の居場所があるのに、私があそこに戻っても、彼らは私のことを受け入れてはくれないだろう――漠然と、そう思った。
それに対する実感がいまいち湧かないせいで、悲しみのようなものはほとんど感じなかったけれど。
「それより名前さん、家には帰れそうですか? 記憶がないのなら、家に帰るのも難しそうですけど。前に学校帰りに、ここらへんでバスに乗ってる名前さんは見かけたことがあるので、歩いて帰れる距離でもないと思うんですが」
康一くんは、心配そうに聞いてきた。この人は本当にいい人なんだろうなと思い、何だか胸が痛かった。
「多分、大丈夫。学生証は持ってたから、自分の住所は知ってるし。歩いていける距離じゃあないってんなら、タクシーでも呼ぶかな」
そう伝えると、康一くんはホッとしたような表情になった。
「そっか、それなら大丈夫そうですね。……とにかく、名前さんが無事に戻ってきて良かったです。きっと、ご家族も喜んでくれると思いますよ」
「……うん、そうだね。そうだと、いいな」
そうだといい。心でそう願いつつ、心のどこかでは、全く別のことを願ってしまっている自分もいる。
――もし、私が家に居場所がなかったのなら。私は、イタリアに戻れるかもしれないのだから。
康一くんに別れを告げ、私はタクシーに乗り込んだ。住所を伝え、私は『自分の家』に向かう。他人の家に向かうような奇妙な感覚を覚えながら――私は、息を吐いた。
それにしても。あれだけ日本語で会話をしたのは、私の持つ記憶の中では初めてだ。それが、どこか奇妙な感覚になる。懐かしさ、というものではない。
違和感だ。はっきりと、私は自分の感覚に違和感を覚えている。
この、タクシーの窓から見る風景も、自分の見知ったものとはとうてい思えなかった。
正直言って、ここが私の故郷だとは、全く思えなかった。
なんとなく、そっとまぶたを閉じてみた。
そして脳裏に浮かんだのは、日本でのものではない。いつも思い返すのは、イタリアで出会った、彼らと過ごす情景だ。
彼らの笑顔は、目を開いた途端に、どこかに消えてしまった。