33.因縁の記憶
ギャング組織『パッショーネ』の下っ端に属する、ジュリオチームのリーダー、ジュリオ。
彼のスタンド能力は、「相手の記憶からトラウマを呼び起こさせ、それに基づく幻覚を見せる」というものだった。
人の弱みにつけこむ戦い方。弱みを握った上で完全屈服させることで、彼は部下を洗脳させていたらしい。
『ジュリオのことを忘れられるはずがない』
だからこそファリーナはこう言ったのだろう。精神的な揺さぶりは、強烈な恐れに繋がる。そこから、部下たちはジュリオを崇拝するに至ったのだろう。
そしてジュリオは、自分の部下だけでなく、旅行者、特に異国の女性など、適当な人物に目を向け――幻覚を見せて心を壊すのが趣味という、極めて趣味の悪い嗜好を持っていたらしい。
それならば、私が記憶を失った理由というのは――旅行者であり、違う国の人間である私が、ジュリオに目をつけられてしまったこと。それによって、『記憶を失う前の私』にとってのトラウマが掘り起こされたというのが、原因のひとつではないだろうか。
そして――
「うっ――」
「名前さん、だ、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫、大丈夫だから……」
頭を抱えた私の顔を、私のことを助けてくれた少年は心配そうに覗き込んでいた。
私が今見ていたのは、ファリーナから抜き取った記憶。私はそれを見て少しの間考え込んでいたが、どうも冷や汗をかいていたらしい。頭が痛くなって、思わずため息を吐く。
それでも私は、少年が私のことを心配してくれている傍らで、ファリーナの記憶のひとつをもう一度見つめ直していた。
それは、ジュリオの死に顔。
私が、殺した人の顔――
ファリーナたちは、組織に追われる身となっても、めぼしい情報を得ることができていなかった。追い詰められた彼らは、何か手がかりがあると信じ、なんとジュリオの死体を掘り起こしたのだ。
ジュリオの死体には、外傷はなかった。しかし、穏やかな眠りではなく、『ショック死』したような表情であった。
明らかに――普通の死に方ではなかった。彼らは、ジュリオを殺した犯人がスタンド使いだと確信した。
そこから彼らは、私、ナマエ・ミョウジという存在にたどり着いたのだ。つい最近ギャングとなったスタンド使い、しかも、ジュリオの好みそうな異国の女。ジュリオチームの奴らにとって、私はあまりに怪しい存在だったのだろう。
それにしても、私は実は運が良かったのかもしれない。パッショーネは、ジュリオチームの人間が組織を裏切った時点で、ジュリオ殺しの犯人探しを打ち切り、裏切り者のジュリオチームを粛清する方針へと変わった。
もしジュリオチームの奴らが裏切らなかったら、今頃死んでいたのは、私の方だったはずだ。そう考えると、背中が寒くなった。
そして、『ジュリオ』の死体が、死に顔が、ショック死したようなものだったという事実。
それを見て、本能で感じた。あれは、『記憶』を全て失った上でのショック死だ。私は記憶喪失となったが、全てを忘れた訳ではなかった。しかし――ジュリオの死に方は、全てを忘れたものの死に方。生きていくための、呼吸の方法、心臓の動かし方、目の開き方。本能すら全て忘れてしまった者の、死に方だった。
私は確信した。
この私が、『イン・シンク』という能力で、ジュリオにあった記憶を何から何まで忘れさせたのだと。この私が、ジュリオという人間を、この手で殺したのだと。そしておそらく、それと同時に私は記憶を失った。
私は息を吐いた。いろいろ考えたいこともあったし、心の整理をつかせたいところだったが、今の私には、とにかくやることがあるのだ――
「あの、名前さん。顔色、悪いですよ。本当に大丈夫ですか?」
少年は依然、心配そうに私を見つめている。ちらりとファリーナの方を見たが、彼女は動く気配がない。
そういえば、私はこの少年の名前も知らないんだな、と今更のように感じた。どこか申し訳なく思いつつ、私は彼に話しかける。
「ねえ、君」
「はい? ……どうかしました?」
彼が依然心配してくれているのが身に染みたが、かえってそれが、居心地が悪かった。
「ごめんね」
「……えっ?」
少年に背を向けた私に、彼は呆気にとられたような声をあげた。
私は、私にとって有益な情報を、ファリーナから得られるだけは得ることができたと思う。ファリーナの役目は、もう充分だ。
それなら、私がファリーナに何をすべきか――それは、彼女を始末するだけだ。それが私の仕事であり、私自身と、私の仲間、私の家族を守ることに繋がる。
以前から、自分が人を殺すことにほぼ抵抗感がないことは、自覚していた。その理由は、わからないままだったが――きっと、記憶を失ったときに、人を殺すことへの抵抗感すら、忘れてしまったのだろう。きっと、そうなのだろう。
「ちょっと、名前さん……!」
私を助けてくれた少年が見ている前で、私は『イン・シンク』の拳で何発もファリーナのことを殴った。彼女の記憶を、全て奪うために。呼吸の方法や、生きる方法など、全てのことを忘れさせるために。
少年が私を止める前に、ファリーナは動かなくなっていた。その顔は、ファリーナの記憶から垣間見た、ジュリオの死に顔と同じものであった。
「名前さん」
少年がなんとも言えない表情で私のことを見つめる。それを見て、私は、自分がこの少年と同じ街に住んでいいものかと、疑問に思った。
本当に私は――日本で過ごして、平和に暮らそうとする選択肢を手に取る資格は、あるのだろうか?
「助けてくれたのに、こんなものを見せちゃってごめんね。けど、ちょっとだけ、こっち来てくれない?」
目撃者がいないとはいえ、ファリーナの遺体が発見されるのは時間の問題だろう。とにかく急いで、私は無理やり少年を引っ張り出し、走った。少年はどうすべきか迷っているようだったが、私は構わず走り続ける。平和なこの街に物騒なものを置いてきてしまったのは、心苦しかったが。
「名前さん。あなたは、どうしてこんなことをしたんですか? あなたは、どうして狙われていたんですか? あなたは……これから、どうするつもりなんですか?」
場所を移動した後に、少年から真っ直ぐに私に向けられた感情は、敵意に近かった。
私は、深呼吸する。
これからどうするべきか。それは、走っている途中に決めていた。
「……ごめんね」
そして、不意打ちで少年のことを『イン・シンク』で殴った。
この少年は――私がしたことを、覚えている必要はない。それがこの少年にとっても良いのだろうし、私にとってもそれが最適解だった。
それは、ファリーナに向けたような厳しいものではなく、むしろ優しく触れるようなものであったけれど。でも、だからといってこの行動が許されるとは思えない。私はこの国で人を殺した。顔見知りであろう少年にそれを見せ、そしてその記憶を奪った。それでも――こうするしか、なかった。
少年は一瞬だけ、貧血でも起こしたように倒れる。
一瞬、沈黙が場を支配した。
だが少年は、気だるげに身体を起き上がらせた。そして、寝起きのように呆けた表情で、私の方に目を向けた。
「あれ? 名前さん……どうして、ここに」
今まで起こったことがなかったかのように、少年は目を瞬かせる。――実際、少年の中で、先程のできごとはなかったことにされている。
私が、彼の記憶を奪ったから。ファリーナのこと全てと、私がファリーナにしたこと全てを、忘れさせたから。
「……そうだ。えっと、ぼく、名前さんのことを助けようと思ってたんですけど……あれ?」
「気のせいだよ。私、誰にも襲われてなんかないし、怪我もないよ」
少年は腑に落ちないようだったが、やがて顔色を明るくした。
「そうかなあ。……っていうか、名前さん! 無事だったんですね!」
少年は、そこで嬉しそうに言った。――さっきまでのことなんて、まるでなかったかのように。
今の少年の記憶の中に、ファリーナの記憶はない。そして、私がファリーナにしたことの記憶もない。この少年はただ、一ヶ月近く行方不明になっていた顔見知りが、無事にこの国に戻ってきたことを、素直に喜んでいる。
だが、私としてはそう喜んでもいられない。私は結局、この少年のことを思い出せていないのだから。
「私は、平気だよ。それで、えっと。良ければ、あなたの名前を教えてくれると嬉しいんだけど」
「え? 名前さん、それって」
そこで少年は、さすがに戸惑いを見せた。『記憶を失う前の私』と少年がどれほどの仲だったかはわからないが、名前を覚えていないとなると困惑したようだった。
私は、一部始終を話した。
ここ一ヶ月程度前より以前の記憶が、すっぽりなくなってしまっていること。そして、しばらく異国の地をさまよっていたが、なんとか日本にやってきたこと。――パッショーネのことと、ファリーナのことは、伏せておきながら。
少年は困惑していたけれど、私の話を疑っている風ではなかった。『記憶を失う前の私』とはそれほど交流があったわけでもないが、確実に顔見知りではあったようで、ある程度の信頼感はあったらしい。
それから彼は、自らの名を広瀬康一だと名乗ってくれた。今までのことを忘れた彼は、心から心配そうに私のことを見た。
「それじゃあ、名前さんは……これからどうするんですか? 家に戻るんですか?」
「それは、そのつもりだけど」
少しだけ間を置いて、私は康一くんに尋ねた。
「でも先に、あなたの知る『私』のことが知りたいかな。ちょっと、話を聞かせてもらっても、いいかな? ねえ、康一くん」
康一くんは、突然の私の申し出に戸惑ったようだった。だが少し考えた後に、いいですよ、と答えてくれた。
この少年は、どれだけ、私のことを知っているのだろう。そして、この少年の情報から、私は自分のことを知ることができるのだろうか。
少しだけ不安に思いつつも、私は、康一くんからしっかり話を聞き出そうと決めた。彼のことを信用して、自分自身のことを探そう。それから、イタリアに戻るのか、日本に留まるのか、決めよう。そう決めた。
ほんの少しだけ、イタリアの街と、ナランチャたちのことが懐かしくなったような気がした。