■後編
『鎖つないで/前編』の続き
「…………沙、明」
半分呆然としながら、私は彼を見た。その不敵な笑みは、崩されない。だけど私の直感は、その中に嘘を見抜いた。
ここで、嘘をつく理由。……それは、まさか、まさか彼は。
――自分が生き残りたいがために、AC主義者となっただけなのか?
ほとんど直感的にそう思った。グノーシアの私が望むなら消えてもいいと言ったのは建前で、本当は私をおだてながら従順なフリをして――隙を見て逃げ延びようとしていたのではないか、と。
消えたいわけではない。グノーシアに仕えること自体が目的ではない。
ただ、生き延びるため。グノーシアに媚を売った。そのために人間すら裏切った。それが、彼にとっての、生への執着の表れなのだろう。そう思えば彼の言動も理解できる。
沙明は他のループと何も変わらない。自分だけは絶対に生き延びてやると、そう思っている。――その結論に達し、私は、ため息をついた。
生きるためならなんでもやる。……本当に、その通りの男だ。
だが、私の意思ではそれを叶えてあげられることはない。私はループしてこの宇宙を去るから。沙明の命は、SQの手に委ねられる。……その場合、ロクでもないことになるのは、目に見えている。グノーシアの私に仕えるよりも、ずっと――
――沙明を消したい。
消したい。
SQに、取られたくない。
私だけの沙明にしたい。
首の鎖が、耳障りな音を立てて揺れ動いた。
「沙明。……聞いて」
全ての欲を抑え込めて、私は言った。
「何だって聞きますよ? ナニだってやりますし」
軽い口調。だがその瞳の中に、抜け目のない何かが見える気がする。
「私は……この船にはいられないんだ。このままだと、あなたより先に、この船から出ることになる」
そんな彼に、私は。できるだけ誠実にこう告げた。
「……あ?」
沙明は顔を顰める。何を言っているのか分からないのだろう。それでも私は言葉を続ける。言わなければ、伝わらないから。
「私と一緒にいたい、なんて。……嘘でしょう? 消えたくないから、そうしてるだけなんでしょ?」
「――は、」
今まで軽薄そうに笑っていただけだった彼が、初めて、少し青ざめたように見えた。
私は言葉を続けた。
「SQは、レムナンに執着しているから。私がいなくなったら、あなたは問答無用で消されるだけかもしれない。あなたに用は無いって。それに――消されなかったとしても、死ぬより辛い目に遭うかも。ゴア表現がキツいというか……彼女は、優しくないよ」
何度も負けて、グノーシアに消されて来たが――SQに敗北したときの記憶は、特に思い出したくない。そう思いながら、私は息を吐いた。
沙明は頭を掻いて、そして立ち上がった。グノーシアの私に媚を売り、自分を取り繕うことはもうやめたようだ。率直な物言いをする。
「よく分かんねーけど、ナマエの言うことが本当なら……俺の命、ジ・エンドってヤツ? お前が連れてってくれないなら――SQのオモチャになるか、消されるしかないってワケ?」
「このままならそうなるね。でも、方法はまだあるかもしれない」
そして、深呼吸。
私は、今までは一度も考えたこともなかったことを提案していた。
「一緒にこの船から、抜け出しちゃう? 私が、いなくなる前に」
沙明は目を瞬かせる。私は頭をフル回転させながら、計画をまとめていった。
「幸い……と言っていいかは分からないけど。SQはレムナンと遊ぶのに夢中で、私たちのことは気にしていない。船の権限も私に任せて、完全には乗っ取ってないはずだから……」
ならば、船の権限は私の好きにできる。そこに、隙がある。
「私たちは、宇宙服を着て、この船から抜け出す。近くの船に救難信号を出してから、ね。運が良ければ……助けてもらえるかもしれない」
もっと運が良ければ、沙明だけでなく、レムナンも助けてもらうことができるかもしれない。このままだと沙明もレムナンも、消えるか、SQの愛玩物として飼い殺されるかのどちらかだ。それなら、確率は低くても――彼らが助かるかもしれない道を、選んでみたい。
このループでは仲間だったSQには少々申し訳ないが、それでも。ただ消すならともかく、嫌がるレムナンに酷いことをするのは、やはり悪趣味だと思う。仲間とはいえ、彼女の行動を肯定する義理はない。
「……ナマエサンよ。なんで、ソコまでしてくれるワケ?」
彼は怪訝そうな顔をした。その疑問も当然だろう。私はなるべく、感情を出さないように答える。
「私は……。グノーシア陣営の勝利に検討してくれたAC主義者の望みを、叶えてあげたいと思っただけだよ。沙明が、生き延びたいと言うのなら」
嘘だ。無論それも理由の一つではあるが、それだけではない。
――なら、何故?
少し考えようとしたが、ああ、もう頭の中がぐちゃぐちゃだ。グノーシアになると理性のタガが外れやすくなる。沙明を従えたいという気持ち。彼のことを好きにしたいという気持ち。
その中に確かにある、生き延びたいという気持ちで必死な沙明を助けたい気持ちと。……さっきは見捨てたレムナンのことも、できれば助けてあげたいという、汚染された精神の中に残されたなけなしの良心。
だけど。それすら、根本の理由ではない気がする。
ならば――
もしかしたら、私は沙明のことが好きなのかもしれない。だからこの宇宙の彼を、助けられるなら助けたい、なんて。汚染された脳は、本当に馬鹿なことを考える。
「それに。グノーシアになっても、たまには……あとで後悔しないようなことをしても、いいかなって。……うん。ただの自己満足」
脳内の妄想を追い払い、自分に言い聞かせるようにこう言った。グノーシア汚染されている精神では、何か自分のことを決めることには向かない。何が本当の気持ちなのか、分からなくなりそうだから。
「……SQのオモチャになるか、消されるか。一人で彷徨うことになるかもしれないけど、もしかしたら助かるかもしれない道か。……少なくとも、この船から逃げれば、SQに尊厳を傷付けられることはないよ。ただし、命が救われる保証はないけどね」
だから沙明に委ねる。私にはこれ以上のことはできそうにない。彼がそれでもSQに命運を委ねるというのなら、私にできることはない。
「誰に物言ってんだよナマエ。俺ぁ生き延びるためなら、尊厳だって捨てるっつーの」
「……あはは。それは確かに、そうだよね」
「けどな」
土下座をしてコールドスリープを回避していた別のループを思い返して思わず苦笑いしていたら、沙明は強い口調で決意を発した。
「言っただろ、アンタに一生付いていきますよ、ってな。そうだろ、ナマエ。俺は、アンタだけのAC主義者た」
思わず面食らってしまった。それは、さっきは確かに嘘だと思ったけど。
だけど。今の言葉は確かに、嘘ではないと。私には、そう確信できた。
そうと決まれば善は急げだ。格納庫にいるSQとレムナンには気付かれないよう、私たちは動いた。
まず、LeViの権限を完全に乗っ取る。そして、近隣の宇宙船にメッセージを送った――D.Q.O.内に、グノーシアが一匹と、捕らえられた人間がいること。今から一人の人間が、この宇宙船を脱出するつもりでいること。……私のことは除く。ループして、いつかいなくなるから。
「返事を待っている暇は……ないかな。SQに気付かれないうちに、宇宙服を着て、エアロックから外に出よう」
そうして、私たちはEVA準備室に移動し、宇宙服を装着して宇宙空間に出るため、カプセル装置に入ろうとした。
そこで。私はふと、彼に声をかけた。
「沙明……その首輪、もう要らないんじゃない?」
てっきり外すものかと思っていたが、そのまま宇宙服を着ようとしている。邪魔じゃないのだろうか。そもそも、グノーシアに媚を売る理由がなくなった今は、もう必要ではないだろう。
そう思ったが、彼は平然と言った。
「ナマエ。俺はお前のもんだよ。……お前がいなくなるまでは」
「……そう」
「それに、アンタに仕えるって気分自体、グノーシアであることを除いても悪くないですし?」
言いたいことはいろいろあった。本当にこれでいいのかどうかは、私には分からない。
「分かった。沙明がそうしたいなら、そうして」
だけど結局、私は彼の行動を肯定した。
この宇宙では結局、私たちはグノーシアとAC主義者でしかない。だからこれは一種の主従関係だ。首輪は、その証。それ以上でも、それ以下でもない。……そう思い込むことにした。
エアロックから宇宙に飛び出し、そして、私たちは手を繋ぐ。何度もループしてきたけど、そういえば――宇宙に飛び出したのは、初めてだ。
「これが、宇宙か……」
「あん? ナマエお前、宇宙に出んの初めてか?」
「うん。初めてだよ。……初めてが沙明と一緒で、良かったかな」
私がそう言うと、彼は黙って強く手を握り返してきた。
煌く星々。無重力の浮遊感。不思議な気分になる。グノーシアとしての本能の、彼を消したいという気持ちが、宇宙服越しに沙明の手を握っていると何故か和らいだ。
D.Q.O.が離れていくにつれ、世界に私と沙明の二人しかいないように錯覚してくる。ループのことすら忘れて、このままずっと二人きりでいたい、とすら思ってしまう。
そうしていると、私は、今までのループのことをふと思い出した。
セツはときどき、沙明のことを「やって」しまう。具体的に言うと、宇宙追放する。
そのことに関して、セツのことを責めるつもりはない。沙明のあの子に対する口ぶりは、汎のセツに対しては特に度が過ぎてるきらいはあるし。そもそもグノーシア規定の話し合いに来ない人間は、義務を放棄したとみなされ、客観的にも問題がある。セツが船外に彼を追放するということは、LeViもそれを認めたということだし。
ただ――この広い宇宙に一人きりにされるのは、寂しいだろうと。妙に感傷的になってしまったのは、私がグノーシアだからか。
私は結局、ループしてこの宇宙を去ってしまう。沙明を、一人きりで漂わせてしまう。
それでも彼が、近隣の宇宙船に助けられることを。私は祈る。そして、できればレムナンのことも救えるように。
沙明が、一人きりになることがないように。
「ねえ、沙明。……そろそろ、お別れが近付いてきたのかも」
永遠に続くような二人きりの宇宙遊泳も、そろそろ終わりが近付いてきた。感覚でわかる――私はもうすぐ、ループするのだと。
「……さっきからそれ、意味分かんねェんだけど。ナマエお前、俺だけのナマエになってくれるんじゃなかったのかよ」
ループのことを告げるつもりはないから、その言葉も最もだろう。だけど。それでも私は、自分の気持ちを伝える。これが最後だと、そう理解しながら。
「そうだね。私だけの沙明、沙明だけの私だよ。その鎖が、結ぶように」
もし、沙明が私のことを忘れても。鎖だけは残るだろう。それがいいのかどうかは分からないが――この宇宙に、私と沙明が手を繋いだ証が、少しでも残ること。それ自体は、悪くないなと思う。
「さよなら、私の沙明。きっと――生き延びて」
「ナマエ、」
手は離さない。それでも、私の意識がこの宇宙から離れていくのを感じる。私が、消えていく。
それでも。ループするまで、ずっと。私達は、手を握り続けていた。