■淡い期待と君と恋

 いつもぼくの隣にいる『法皇の緑』が見えない人とは、決して分かり合えないと、そう思っている。
 とはいえ、女性には優しくすべきだ。まあ、ある程度は。たとえそれが、ぼくのことを理解してくれない人だったとしても。
 そして、ぼくにも、憧れの人くらいいるのだ。この子と恋をしてみたいと、そう思ってしまう人は。
 同じクラスの、苗字さん。

 不思議な人だと思う。
 一人でいることも多く、いつもマイペースに行動している。休み時間中、教室で本を読んでいる日もあれば、ふらりと教室を出ていく日もある。そうしてクラスメイトと一線を引いて行動していることのほうが多く、そういう意味では、ぼくと似ている点はあるかもしれない。
 だが、ぼくと彼女は違う。苗字さんは、それでいて、クラスに溶け込んでいるのだ。ごく自然に。
 人と一緒にいるときの彼女はよく笑う。一歩引いている日が多いことが、嘘みたいに。
 それでいて、彼女はたまに、ぼくと目が合う。
 だけど、苗字さんには、『法皇の緑』は見えない。彼女はぼくのことを、視ているわけではないのだ。

 彼女に『法皇の緑』が見えればいいのに。ああして苗字さんの瞳を見る度、ぼくは思う。
 だけど、そんな望みは抱かないようにしていた。彼女と出会うずっと昔から。ぼくのことを分かってくれる人は、昔からどこにもいなかった。そしてきっと、どこにもいないのだろう。
 苗字さんの笑顔がぼくを和ませたとしても、彼女は決して、ぼくを理解することはできない。それなら、彼女に何かを求めることに意味はない。そんな期待は、するだけ無駄だ。
 だって、ぼくのことを理解できる人は、今までどこにもいなかった。両親すら。
 母には父がいる。父には母がいる。でも、ぼくには誰もいない。
 ありえないこととは思うが、もし仮に、そんな人がこの世にいたとしても、それは苗字さんではない。だって苗字さんには、『法皇の緑』が見えないから。
 それがなんだか、少し悲しかった。


「花京院くん?」
 突然。ぼくの視界に苗字さんの顔がいっぱいになった。あまりに唐突なことで、思わず目を見開いてしまう。
 きょとん、とした表情で彼女は僕の顔をのぞき込んできた。不思議そうな顔。そんな顔をしたいのは、ぼくの方なのに。
「えっと……苗字さん。……どうしたの?」
 ぼくはできるだけ穏やかに微笑もうとした。苗字さんとぼくが直接話したのは、これが初めてだな、とぼんやり思いながらも、何気なく周囲を確認する。
 ぼくと苗字さんが話していようと、休み時間中のクラスメイトは気にも留めない。まるで、ぼくらだけ透明人間にでもなった気分だ。
 それにしても、一体どうしたのだろう。ぼくと彼女が話をしたことは一度もない。なのに彼女は唐突に話しかけてきた。それが当然と言わんばかりに。

「花京院くん、わたしのことたまに見てるよね。どうしたのかなー、って」
 ぎくり、となった。そんなに直球で聞かれるとは思っていなかった。
 とはいえ、ときどき目が合うということはそういうことだ。ぼくが苗字さんのことを見ているだけではなく、たまに彼女がぼくを見ているからこそ、目が合うのだ。
「……君は、素敵な人だなって。そう思っていただけだよ」
 嘘は言っていない。
 だけど、それ以上のことを言おうとも思わない。
 苗字さんは周囲を和ませるような人で、だけど、それでもぼくの『法皇の緑』は見えないから。
「そっか。私も、花京院くんは素敵な人だと思う」
 彼女は照れもせずあっさりと言った。だけどその言葉が、ぼくの心に影を差す。
『法皇の緑』が見えないのに、ぼくの何を見て「素敵な人」だなんて言ったのだろう、苗字さんは。
 ――『法皇の緑』が見えない人に、ぼくは何で、素敵な人だなんて言ってしまったのだろう。


 ぼくは心を閉ざす。何を期待していたというのか。結局彼女にだって、ぼくのことは理解できないというのに。
 そんなぼくのことを気にすることなく、苗字さんはにこやかに言った。
「花京院くんさ……前に、誰かと話してなかった? ……見えない、誰かと」
 また、ぎくりとなる。何故彼女は核心を突くようなことばかり言うのだろう。確かにぼくは、『法皇の緑』につい話しかけたこともあったと思うが。それが誰かに見られていたとしても、そこまでおかしい話ではない。
 ――それでも。何も、知らないくせに。『法皇の緑』が見えないくせに!
「……何のことかな。君は、ぼくが独り言を喋っているところでも見ただけじゃあないか?」
 反射的に拒絶するように言った。それでも彼女は、平然としている。
「独り言かな、とも思ったんだけどね。……だけど、花京院くんが『何か』について話しているときの表情は……私が見たことのないものだった。私を見るときとも、他のみんなを見るときとも違った。穏やかで、優しくて……。だから、花京院くんのことが気になったの」
 ぼくは唖然とする。彼女はぼくのことを『視ていた』とでも主張したいのか?

「仮に、ぼくが見えない『何か』と話していたとして……だからどうするって言うんだ? 苗字さんに、何か関係あるのか?」
 鋭く言う。優しい口調を保つことも忘れて。
 すると苗字さんは少し、寂しそうに笑った。
「……どうあがいても、私には見えないのかもしれないね。花京院くんと同じ世界は。だけど……見ようともしなければ、何も始まらないと思った」
 そして、一呼吸。彼女は真剣に、ぼくの目を射抜いた。
「私は花京院くんと、同じ世界が見てみたい。そう思ったんだよ。……教えてほしいな、花京院くんのこと」
 その瞬間、ぼくは初めて、苗字名前のことを視た気がした。


 ……彼女には『法皇の緑』が見えない。見えないけど。
 だが、苗字さんは知りたがっている。『法皇の緑』のことを。……今まで、誰も見ることがなかった、『彼』のことを。
「……見えないと思うけどね、君には」
 そして、ため息をつく。呆れる気持ち。降参したような気持ちでもあった。
 なのに彼女は、とても嬉しそうだ。
「やっぱり、いるんだね。『何か』が。……私もいつか、花京院くんと同じものが見えるかな」
 見えないと思う、と言ったばかりなのに。
 やはり彼女の笑顔は調子が狂う。この子と恋をしたい、なんて、やっぱり思ってしまう。
 そんなこと、あるはずがないのに。

「ねえ、花京院くん。……今度から、たまには一緒に話さない? ……あなたのこと、知りたいから」
 それなのに彼女はぼくにこう願い出る。いつもだったら、やんわりと断るところだったけど。
「……好きにしたらいいよ」
 思わず、こう言ってしまった。随分とそっけない言い方になったけれど、それでも苗字さんの向けてきた笑顔はやけに明るくて。
 ぼくは思わず、呻くように頭を抱えた。
 顔に集中した熱のことは、気が付かないふりをしながら。


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