■二度目のさよなら
※レオーネ呼び
「少し……」
ゆっくりと、愛おしいものでも触るように、ナマエはオレの髪に触れる。
「少し見ないうちに、髪が伸びたのね。レオーネ」
そう言って彼女は、そっと涙を流しながら、オレの身体に抱きついた。オレはその小さな身体を見下ろしながら、じっと彼女のことを見つめる。だが、抱き返すことのなかった腕は、宙を掻いたところで行き場所がなくなった。
オレが今更彼女に触れるなんて、許されるはずがない――そう、自分に言い聞かせた。彼女は依然、幸せそうに、悲しそうに、泣いているだけだった。
ナマエとは、高校時代に付き合っていた。それからも、オレが警察官になった当初くらいまでは、それなりに順調だったはずだ。
だけど、オレがこの街に失望してからか、チンピラ共から賄賂を受け取るようになってからか――オレは、彼女からの連絡を拒むようになった。会う頻度は極端に減っていった。
それでもナマエは、オレの心を慰めようとしていた。変わりゆくオレを見ていても、残酷なほど、彼女は何も変わらなかった。
だけど、結局それは無意味なものとなった。結局オレは、償いようもない罪を背負ってしまったからだ。
その瞬間――俺が失脚してから、オレは彼女の連絡に全く応えなくなった。彼女が行きそうなところには全く行かなくなった。やがて、ナマエからの連絡は途絶えた。
彼女との縁はこれで完全に切れたと、そう思っていた。積極的に縁を切ろうと思っていたわけではない。ただ、あの時のオレには、ナマエと合わせる顔がなかった。
ギャングになってから、自然と彼女のことは思い出さなくなっていった。
オレの頭の中にあることは、十字架を背負ったあの場所のことと、それを忘れさせてくれる絶大な権力の下で、与えられた任務をこなしていることだけだった。
なのに――
「また会えて、良かった……あなたにずっと、会いたかった……」
何故、彼女は今、自分の目の前にいるのだろう。何故、オレを抱きしめながら、泣いているのだろう――
内心困惑しながら、それでも目の前にいるナマエが泣き止まないかと、手を伸ばしかける。しかし、やはり躊躇ってしまっている自分がいた。
それに――昔はあれほど愛しいと思っていたはずの彼女に、壊れそうなくらい抱きしめられても、やはりオレの心は動くことはなかった。
そのことに、むしろ動揺していた。
「本当に、また会えて良かった。まさか、本当に会えるとは思っていなかったけれど。覚えてる? 四年前の今日、私たち、ここで付き合い始めたのよ」
彼女は微笑みながら、オレの方を見る。
オレは辺りを見回しながら、その時の記憶を手繰り寄せようとした。だが――思い出そうとした記憶は、どれもひどく曖昧なものだった。
「そう……だったか。そうだったかもしれねえ」
「そうなのよ。そうだったのよ」
彼女は嬉しそうだったが、寂しそうにも見えた。
それからナマエは、わざとらしく明るい声を出して、そしてオレに数年ぶりの誘いをかける。
「ねえ、今から時間ある? ここ、今私が住んでいるところの近くなの。せっかくだし、私の家で、またお話しない?」
オレは少し考えた。
今日は、特に任務がある訳ではない。たまたま、街に出ていただけなのだ。
それでまさか、自分の過去の一部と出会うことになるとは思ってもみなかった。
数年間も会うことすらなかった彼女が、オレのことを見つけ、急にこっちに駆け寄ってくるだなんて、考えてすらいなかった。
「……わかった」
逡巡ののち、やがて短く答えた。その答えに、彼女は顔を輝かせたが、どこか切なげでもあった。
オレが彼女の誘いを受けた理由は、きっと彼女が期待しているものではない。それは、ナマエの方もわかっているだろうけど。
そう。これ以上、こんなオレに――彼女を、巻き込む訳にはいかない。オレは、それを言わなければならない。
彼女には、オレのことを忘れて貰わなくては。彼女と会うのは、今日で本当に最後にしなくては。
ナマエには――オレのことなんて忘れて、幸せになって貰わなくては。
「座って」
ナマエの部屋に入ったオレは、彼女に促されるままに椅子に座った。
彼女は茶を入れて、オレの近くに立っていた。オレは茶には手をつけず、ただ彼女がどう切り出してくるかを伺っていた。
「本当に、髪が伸びたわね。いつの間にか化粧も濃くなっているし」
「……まあな」
やがてナマエは近寄ってきて、彼女の手がオレに伸びる。彼女の手を拒絶することもできたが、それはやめた。できなかったのかもしれない。
自分から触れることは許されないとは感じていたが、だからといって彼女を拒絶することもできなかった。
「まあ、そんなあなたも素敵だと思うけれど……少し、髪、絡まってるわね。梳いてあげるわ」
オレが何も言わないうちに、彼女はいつの間にやら手にとっていた櫛を取り出し、オレの髪をとかし始めた。触れられる感覚に、自分の心が若干揺れたような気がした――が、やはり、鉛のように重たくなっていたこの心は、結局動かなかった。
彼女は、とりとめもない話を続ける。
まるで、まだオレたちの関係が繋がっていた頃のままだとでも言わんばかりに。
しばらくの間、何とも言えない奇妙な空気が場を支配した。一方通行的な彼女の語り。オレに触れる手。オレは結局、彼女の語りに返事はしなかった。
別れ話もなしに、自然消滅したこの関係。それがそのまま、自然に復活するはずもないのだ。そして、やり直すなんてことは、もう有り得ないのだ。
「それでね、母さんったら、レオーネくんと元気にしてる? ――なんて言ってきてね」
ナマエの手が少し、震えているのがわかる。
彼女にこれ以上、昔を捨てきれていない話をさせるのは酷だろうと――オレは、ついに息を吐いた。
「ナマエ」
そこでようやく口を開いたオレに、ナマエは答えなかった。彼女は、オレが言いたいことがわかっているのだろう。
「おまえがオレと一緒にいることは、もうできない。オレが一番安心できる場所は、おまえの隣じゃあないんだ」
この言い方だと他に女でもできたみたいな言い方になってしまったが、それならそれでいいかと思った。そう思ってくれた方が、いっそやりやすいのかもしれない。
彼女の顔は見えない。ただ、依然としてオレの髪に触れるその手の動きが、さっきまでとは違ったようなものに思えた。
「私は、あなたの隣が一番安心できる。それは、今でも変わらないわ」
彼女の声は震えていない。だが、感情を押し殺した声のようにも聞こえた。
「私は、今でも、あなたのことを――」
彼女の声が、そこで震えた。オレはそこでついに耐えきれなくなって、ナマエの言葉を遮るように息を吐くことしかできなかった。
「……オレが、おまえと離れていってから、何をしたかを知って言っているのか?」
知ってる、と彼女は呟いた。無意識か、彼女の手に、若干力が入っているようだった。
「あなたが、賄賂を受け取るようになっていたことも知っている。そして、あなたが失脚したことも。これは新聞で見たわ」
彼女は言葉は濁したが、この口ぶりなら、オレの同僚がオレの責任で死んだことも知っているはずだ。それを思うと、今日のナマエとの会話で、一番心が重たくなるのを感じた。
「そして、あなたがこの間、ブチャラティという人にスカウトされて、ギャングになったと言うことも」
「……そこまで知っていたのか」
「ギャングの情報屋に聞いたの。どこかで野垂れ死になんてしていたら嫌だなと思って。ブチャラティさんはいい人らしいから、きっと、心配ないんでしょうね……」
彼女は悲しそうに微笑んだ。ギャングに借りを作るということは、ただ事ではないというのに。
ナマエの言葉全てに――呆れるように息を吐いた。そして、自分の浅はかさを悔いた。ナマエとしっかり別れておけば、少なくとも彼女はここまで自分に囚われることなんてなかったはずだ。
あの頃の自分にそれができたかは、別として。
さらに彼女は、そっと言葉を付け加える。
何かとんでもないことの宣告のような、そんな告白を。
「それでもね、私はあなたの隣が一番いいの。今も、昔も……」
「……それは、おまえが昔愛した男に対しての侮辱だぜ」
「そう思ってるのはあなただけよ。あなたの正義感は、昔から知ってる。今も変わっていないはずだわ」
思わず、鼻で笑いそうになった。正義なんてものを信じていた過去の自分と、心が動かなくなってしまった今の自分が、同じなんてはずはない。
「買いかぶりすぎだ。オレは、あの頃の気持ちなんてもう持っちゃいねえ」
「それでも」
彼女はそこで一瞬、口を噤んだ。だけど、すぐに、はっきりと言う。
「それでも、私は、あなたを信じてる。あなたの正義を、守るべき未来を信じてる」
彼女は真っ直ぐすぎるのだ。否、妄信していると言うべきか。
それがどこか、過去の自分を見ているように思えて――顔を顰めた。
彼女がそう思うなら、もうそれでいい。だが、やはり、自分と彼女が共にいることは、どうしようもなく不可能だと感じた。
「……もう、これ以上一緒にいるわけにはいけねえ。おまえとオレの人生は、もう交わることなんてないんだ」
彼女はこちらを見ていたが、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
「もうオレの髪を触る理由なんてないだろう、ナマエ。オレは行くぜ」
ナマエの手をできるだけそっと振り払って、オレは立ち上がり、彼女の家から立ち去ろうとする。
彼女は最初、そのまま立ちすくんでいたが、やがてゆっくりと着いてきた。彼女の表情は見えず、ナマエの感情も読み取ることはできなかった。
「ねえ、レオーネ」
後ろを振り向かずに出ていこうとしたが、それは叶わなかった。後ろから、唐突に声をかけられたからだ。
何だ、と返事をしようと振り返ったその瞬間、
「!」
背伸びしたナマエに、軽く口付けされた。久しぶりの感覚に、彼女の感情が込められているであろうその行為に、一度に過去の情景が思い出された。
彼女との過去が一瞬、脳内で色付いた。
「突然ごめんなさい。私は今でも、あなたが好きだわ。それを伝えたくって」
ナマエは、もうとっくに泣いていなかった。毅然とした態度で、凛とした瞳でこちらを見つめる。
瞳の裏に浮かんだ過去の情景は、もう消えた。ただ、今目の前にある彼女のことだけが、目に映っていた。
だけど。
「……オレのことなんて、忘れてくれていい。オレはきっと、おまえのことをまた思い出さなくなる」
「忘れるわけではないんでしょう? なら、いいわ。ただ、正義の心を取り戻したと思ったら……また、私のことを訪ねてくれないかしら、って……そう思うの」
彼女の言っていることが理解できず、眉を顰める。彼女の、信じる力とでも言うべきか――その強さが、今のオレには無縁なものに感じられるようなものなのに、真っ直ぐに向けられていることが、奇妙に感じられた。
「そんなことが起こればな。だが、オレはもうここに戻ってくるつもりはない。ナマエも、オレのことなんて忘れて生きろ。おまえは、これ以上はギャングなんかに関わるべきじゃあないんだ」
彼女の言葉に対し、オレは突き放したつもりだった。
だがナマエは、どう解釈したのか、笑顔すら浮かべたのだ。
「相変わらず優しいのね、レオーネ。そんなんだから、私、忘れられないし、忘れないのよ」
「……もう、好きにしろ」
「そうね」
今度こそ、オレは彼女の家を出ようとする。
彼女はこう言ってはいるけれど、オレはやはり、ナマエの元に戻ろうとは思っていなかったし、戻ることができるとも思っていなかった。
「さよなら」
「……ああ」
ナマエの別れの言葉に、短く返す。これで本当に最後だ。そう思っていた矢先――
「また、会いましょう」
思わず振り返る。その顔は、満面の笑みのように見えたが、確かに一筋の涙が頬を伝っていた。
まだ懲りていないのか、こいつは。もう会うことなんてない。そう言っているのに。
オレは返事をしなかった。ただ、ゆっくりと歩きながら、帰路に着いた。
明日以降の、絶対的な権力の元で下される命令を遂行することだけを、ひたすら考え続けながら。
それから暫くして。そして、オレはやはり、ナマエのことを思い出さなくなっていった。彼女と会うこともなかったし、もうあの場所に行くこともなかった。
ただ――ふと、動かないはずの心の中に、湧き上がる何かが感じられることはあった。本当にときどき、ナマエのことを思い出した時などに。
彼女は、自分のことなど忘れてくれているだろうか。忘れればいい。これ以上はギャングなんてものとは無縁に、幸せに生きてくれればいい。彼女がそれを望んでいなかったとしても。
ナマエの言う正義感なんてものがオレの中に残っているとするのなら、こんなことを願うくらいだろう。そう思いながら、相も変わらず、オレはただひたすら、何も考えずに命令を遂行する。
感情のない兵隊のように、恋する兵士のように。