■さよならなんて言わない

※暗い

 温い感覚に包まれながら、目が覚めた。
 そして目の前にあるのは、愛しい恋人――ブローノ・ブチャラティの寝顔。

 あまりにも無防備なその姿を、思わずまじまじと見つめた。
 切りそろえられた彼の黒髪が、少し乱れている。そして耳をすませば、規則正しい呼吸音が聞こえてきた。
 全身に感ぜられる、彼の体温。私より大きい、握りしめた手の感触。
 温い幸せを感じながら、私はゆっくりと彼の顔に近づいて、一度口付けを交わした。
 さらに、雨を降らすようにキスを落とす。その度に、彼の柔らかさと温かさを身に感じる。
 ――ああ、生きている。
 二人一緒に繋がることができていることに、私はただ、幸せを感じた。


「なあナマエ、くすぐったいぞ」
 静かだった恋人の口から、唐突に声が漏れた。その声に私は慌て、彼から少し離れようとする。
「……起きてたの?」
 だけど、彼から離れようとしても無駄だった。むしろ、身体を抱きかかえられ、逆に引き寄せられてしまう。
 一瞬虚を突かれたが、大好きな瞳が目の前にあることを確認すると、逆に心臓が高鳴った。
 そして、ずっと見つめ合いたいと思ってしまった。唐突に恥ずかしくなって、私は目を背ける。
「何をしていたんだ?」
 その口ぶりに、一瞬だけ意地悪を言われたのかと思い、思わずドキリとする。
 だけど、彼はただ鈍感なのだろうと思い直した。そう思うと、そんなブチャラティが、どうにも愛おしかった。
「……あなたの顔を見ていたのよ」
「オレの顔なんて、いつだって見れるだろう」
「そういうことじゃないの」
 彼はやっぱり鈍感なのかしら。それすらも、愛おしく思えるのだけれど。
 そう。私はいつまでも、彼のことを見つめていたかった。
 それに、本当に『いつだって』彼のことを見つめることができないことも、わかっていた。

「ほお、なるほどな」
 私の発言を受けてか――恋人は、私の顔をまっすぐに見つめてきた。力強い瞳が私を貫く。精悍な顔立ちが、すぐそばにある。
「……ちょっと」
 こうして、改めて向き合うと、どうにも恥ずかしい。だから、半分茶化すようにして、私は言った。
「ねえ。いい加減、そんなに見つめるのやめてもらえない? 私の顔なんて、いつだって見れるでしょう」
「君が言ったんだろう、ナマエ。そういうことじゃないんだ、とな。それに、君のことを見るのに、飽きることなんてないさ」
 私の言葉に対して、ブチャラティはいつだって、私が欲しい言葉――否、それ以上の言葉をくれる。
 それがどうにも嬉しくて、私は一度、ブチャラティの唇を奪った。
 不意を突かれたのか、彼が少し驚いたことが、空気でわかる。同時に、彼の温かさも身に染みた。
 嗚呼。こんな時間が、ずっと続けば良いのに。


 結局のところ、私たちが一緒に過ごすことの出来る時間なんて、ごく限られたものでしかなかった。
「君は相変わらず、オレを驚かせるのが上手いな」
 ブチャラティはどこか幸せそうに囁いた。その後、彼は目を伏せて、小さくこう呟く。
「嗚呼、ナマエ。オレは君のことだけを見ていたいし、君にだけ触れていたい」
 彼は、私の頬にそっと手を伸ばす。そして、目を伏せ、噛み締めるように呟いた。
「ナマエ。オレはできることなら、君のことだけを考えたいんだ」
 私も同じだった。私も、ブチャラティのことだけを考えて生きていたかった。
「私も、あなたのことだけを――」
 だけど、どうしても詰まってしまって、続きを言うことができなかった。
 残酷なほど、理解していたからだ。こんな世界で、そんなこと、どうしてもできっこないって。

 少しの間、沈黙が訪れる。
 それでも、互いの温かさは失われていない。
 そんな中で、私が次の言葉をいいあぐねていると、ブチャラティはふと、私の腕に手を伸ばした。
「君の腕は……。いつだって、綺麗だな」
「……ブチャラティ」
 私は知っている。彼が、私の傷ひとつない腕に、何を見ているのかを知っている。
「ナマエ。たとえオレが死んでいこうと、君だけは――」
「やだ、そんなこと言わないでよ」
 こう言っても、彼はどこか神聖なもののようにそれを見つめる。殺人に手を染めたことのない私の腕を、麻薬など触れたこともない私の腕を。
 傷一つない私の腕に、彼が見るのは――きっと、悪なんてなかったはずの、昔の日常。
「私はいつだって、ここにいるから。私はいつまでも、変わらないから……」
 正義だと信じた『組織』が麻薬に染まり、日々荒んでいく街。
 やりきれない思いを抱えながら、それでもブチャラティは、私の手に触れたがる。
「……すまない。気がどうかしていたようだ――忘れてくれ」
 ブチャラティはしばらく沈黙した後に、軽く微笑んだ。でも、それは誤魔化しのものでしかなくて、本心からの笑みではないことくらい、わかっている。
 そして、私は思う――私はきっと、彼のことを救える人間にはなれない。
「大丈夫よ、ブチャラティ。大丈夫だから……」
 それでも私は、腕の中で彼を抱きしめた。
 彼を救うことができなくても、少しは彼の心に寄り添いたい。そう思ったから。


 もうしばらく、二人で温さに浸っていたかったけれど、そんな時間にだって、容赦なく終わりは訪れる。
「さて。……名残惜しいが、そろそろオレは出発しよう」
 ブチャラティは時計を確認すると、優しく私を引き剥がし、おもむろにシーツの中から出た。
 そして、着替えようとして、服に手を伸ばしている。寝起きの乱れた髪は、まだそのままだ。
 私は布団から出るのが気だるくて、その光景をただ見つめた。
「朝ごはんは食べていかないの?」
「……ああ」
 そう言っているうちに、彼はあっという間に着替えてしまった。
 ブチャラティは、少し乱れた髪を整えようとしている。私が髪を結おうか、と申し出たが、断られてしまった。
 それはどこか、拒絶のようで――
「ねえ。もう少しだけ、一緒にいれないの」
「……すまない」
 縋るように言っても、彼に伝わることはない。
 私たちは結局は、違う世界に生きているのだと、実感してしまう。この世界はどうしても、私たちを引き裂きたがるのだ。
「なあ、ナマエ。……本当に君は、これで良いのか」
「何?」
「こんな男といて、本当に……良いのか」
 ブチャラティは、どこか辛そうだった。もう既に準備を終えたのか、彼は私に背を向け、手に荷物を持っている。
「バカ言わないでよ。あなた以上に良い男なんて、いやしないわ」
 私は知っている。
 私がこうやって、彼に声をかけたとして、ブチャラティの心は変わらないことを知っている。
 私の力では、真に彼のことを救うことができないと、そう知っている。
 重たい空気の中、私たちはお互いの顔を見ることができなかった。
 さっきまで幸せの中に居たのが、嘘みたいだった。

「……ねえ、ブチャラティ」
 それでももう一度、何か声をかけようとして、ブチャラティの方を見た。
 だけど。
「……ブチャラティ」
 彼はもう――この場にはいなかった。
 いつものことだった。彼はいつも、いつの間にかいなくなってしまっているのだ。ドアを開けることもなしに、私が目を離した隙に。
「バカ……」
 私たちはいつも、別れの際に、さよならとは言わない。もしかしたら永遠に「さよなら」してしまうかもしれないのが、怖いから。
 また会おうとも言えない。本当にまた会えるか、それは分からないから。
 さっきまで彼の隣にいたことが、幸せの中に居たことが、彼と会話していたことが、彼の温もりに触れていたのが――全部、夢みたいだった。
 そして私は、今日も泣き崩れた。そうするしかなかった。


「さよなら、なんて言葉。……本当に言う日が来るなんて考えたくなかったな」
 冷たい石の下で、眠りに落ちる男。
 そこにあるのは、愛しい恋人だった人――ブローノ・ブチャラティの死体。

 あまりにも残酷な現実を受け入れられなくて、思わず目をそらした。
 いくらその石を眺めても、彼の顔をもう二度と見ることができない。いくら耳をすましても、彼の声はもう二度と聞くことができない。
 もう、彼の体温を感じることは二度とない。手を握りしめることも、抱きしめることもできない。
 冷たい風を浴びながら、私はゆっくりと彼の眠る墓石に近づいて、一度だけ唇を落とした。
 さらに、何度か同じことをしたけれど、その度に固さと冷たさを身に感じるだけだった。
 ――ああ、彼は。
 もう二度と、二人一緒の時間を過ごすことができないことを実感して――私はただ、涙を流した。

 彼の最期のことを、新入りだと言う彼の仲間に少しだけ聞いたことを思い出す。
 少年は詳しくは語らなかったが――ブチャラティは、確かにやり切ったのだと、そう言っていた。
 あの瞬間、彼は確かに生きていたのだと、そう言っていた。
 きっと、彼は最後の最後に救われたのだと――そう、信じた。信じたかった。
「ブチャラティ……」
 もう、二人一緒に繋がることはできない。温もりを感じることすらない。
 それでも、彼が救われたのならと。彼が確かに、生きていたのならと。
 それならそれで良い、そう思いたかったのだけど。
「また、会いたいな……」
 こう思ってしまう私は、わがままなのだろうか。涙で視界が滲んだけれど、冷たい墓がぼやけて見えただけだった。

 本当はいつまでもここにいて、一緒に朽ち果ててしまいたかったのだけれど――そういうわけにもいかない。
 彼が望んだ通り――私はまだ、生きている。私の腕は、いつだって傷ひとつない。
 だから私は、あえて毅然と言った。声が少し震えていたかもしれないけれど、彼にはひとつ、目をつぶってもらおう。
「さよなら、ブチャラティ。またいつか、会いましょう」
 死が二人を引き合わせる、そのときまで。
 彼のことだけを静かに想いながら、私はゆっくりと、街へ戻っていった。


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