■大切なものは
※病み
この世で一番大切なものは何か?
――それは友情だ。
ナランチャは昔、そう思っていたようだ。だが、今は違うらしい。
じゃあ今は何だと思っているの、と聞くと、彼は少し考えてから、答えた。
それは――
「ナマエ。おはよう」
恋人の家で、恋人の声で目が覚めた。
目が覚めたそのすぐ先には、恋人の顔があった。
「……ナランチャ」
寝起きの頭で、何故ここに彼の顔があるのかを考える。やや幼い、私の好きな顔。それを見ていると、全てがどうでもよくなってしまいそうになる。
上手くはたらかない口を回して、私は彼に聞いた。
「ええっと……帰ってきてたの」
そう、出かけていたナランチャが、家に帰ってきていたところだったのだ。寝起きの頭では、その答えにたどり着くまでに、やけに時間がかかった。
そう寝ぼけている私を見て、ナランチャは微笑んだ。
「ああ。ただいま!」
「うん。おかえり」
何気ない会話。何気ない仕草。一見、とても幸せな響きに聞こえる。一見、とても幸せな恋人たちに見える。
――私が、ここ数ヶ月、一歩もこの家から出ていないということに、目をつむれば。
さらに言うなら――私たちが二人とも、それを心から望んでいるということから、目を逸らせば。
私はここ数ヶ月、ナランチャの家にずっといる。ナランチャ以外の人間と話すこともないし、外の空気を吸うことすらしていない。
だがこれは、自由を奪われているわけでもなければ、もちろん軟禁されているわけでもなかった。
実際、鍵をかけて閉じ込められてるわけじゃないし、出ていこうと思えば出ていくことができる。扉も開けられるし、窓から出ていくことだって容易だ。私はいたって健康体だし、着ている服も好きな服だ。家から出ていない、ということを除けば、私はいたって自由だった。
つまり、私が彼の家にいることを、最終的に選択しているのは、私の方だったのだ。私が、私の意思で、ここに留まっているのだ。
それでもナランチャは、私の選択を――受け入れた。否、望んでいたと言ったほうが正しいかもしれない。
こうやって私が、誰の目に触れることもなく、彼だけのものとなっていることを、ナランチャは誰より喜んだ。
家に帰ってくると、私が必ず居て、彼のことを出迎える。ナランチャはそのことを、何よりも喜んでいる。
家にいるときは、いつも二人一緒にいるし、ナランチャもできる限り、家に居てくれる。
私も、ナランチャも――お互い、この状況を、心から望んでいた。
そう、それだけの話だった。
「ごめんなー、ナマエ」
急に謝られても、何が、とは聞かない。彼はいつも、『ただいま』の後、こう言うから。こうやっていつも、悲しそうに謝るから。
「君を家に独りにして、ごめんな」
私は、口を挟めなかった。ナランチャが、ゆっくりと言葉を続けるから。
「でもな、ナマエ。オレは絶対、君をひとりぼっちなんかにさせないからな」
ナランチャが口癖のように言う、この言葉。その意味は、良くわかっている――だから君も、オレをひとりぼっちにさせないよな。
彼は、私のことを、百パーセント信じている。だからこそナランチャは、私が彼のことを百パーセント信じているのだということを、信じている。
それがわかっているから、私はいつも、ナランチャにこう言うのだ。
「わかっているわ」
ゆっくりと、言葉を連ねる。彼に言う、というよりは――自分に言い聞かせるように。
「私は、絶対に、あなたの元から離れていったりしない」
私がこう言うと、ナランチャはいつも、嬉しそうに笑う。
私たちがこうなってしまったきっかけは、何だっただろう。
「なあナマエ、今日からここで暮らそう。今日からここは――オレたちの家だ!」
あの時、彼にこう言われてから――私の運命は、ひとつに決まった。
最初は、ただ純粋に、二人で暮らすことができて、幸せなだけだった。
先におかしくなってしまったのは、どちらだったのだろう。
最初に、ずっと一緒にいたいと言ったのは、ナランチャだったのかもしれない。それから私が、この家から一歩も出なくなったのかもしれない。
それとも、私が彼と離れたくなくて、この家から出なくなったから――ナランチャが、ずっと一緒にいたいと、願うようになったのかもしれない。
「ナマエは、ずっとオレのだ。オレだけのものだ」
ナランチャはいつから、こういう風に言うようになったのだろう。
「オレはな、ナマエのことを誰にも見せたくないんだ。独り占めにしたいんだよ」
ナランチャが無邪気な笑顔で、こう言うようになってしまったのは、いつからだっただろう。
「なあナマエ。君に、オレだけの前で笑って欲しいんだよ……」
私が――ナランチャの前でしか笑えなくなったのは、いつからだっただろう。
それはわからない。いつからこうだったのかなんて、もはや思い出せすらしなかった。あの時からどれほど月日が過ぎたかも、わからなかった。
だけど――私は、それで、良いと思っていた。だから、私は、ずっとこの家にいて、ナランチャと一緒にいるのだ。
この家から出られなくなった、ナランチャから離れなくなってしまった。――そう言っても良いのかもしれなかった。
「オレのだ」
ナランチャは今も、私のことを抱きしめながら、そっと囁く。
「オレだけの、ナマエだッ……」
もろく、はかないものに触れ得るかのように、私に触れる。
「だから、ナマエ」
ナランチャはきっと、心から私のことを信じている。だから――私も、ナランチャのことを心から信じているはずだと、疑いを持ってすらいないのだ――
それは、決して間違っておらず、むしろ当たっていた。
彼の持つ、どこまでもまっすぐな忠誠と愛情。それは時に、重たいものとなり得た。
私の身体では耐えられないほど、押しつぶされそうなほどに。
「ずっと、一緒だよな!」
どこまでも無邪気な笑顔で、彼は言う。私の目を、真っ直ぐ見つめて。
ナランチャは知らないのだ。彼は、大切なものを壊さないようにして、大事に大事にしているつもりなのだろうけど――むしろ、その行動が、私の心を壊していっているということを。
「……うん。ずっと、一緒だよ」
だけど私は、それでも良いと思っていた。
ナランチャは、私の心を縛っていると、自覚していない。
彼はただ、独り占めをしたいだけなのだから。どこまでも無邪気に、まるで子供みたいに。
そして実際――彼が私を束縛しているのではなく、むしろ私が彼に束縛されにいっているのだった。
この関係を、ありふれた言い方で表すならば――結局は、ただの共依存でしかなかった。
ナランチャは昔、信じていた人に見捨てられた。
だから、私がこの世で一番大事なものを聞いた時――こう答えたのだろう。
この世でいちばん大事なもの。それは、大事なものを、大切にすること。守り抜くことだという。
守り抜くべき大事なものは、信頼であり――そして、私自身だと言った。
「ナマエ、君はオレが守るよ」
「……ナランチャ」
ナランチャはきっと、ずっと私のことを、大切なものとして『大事にする』のだろう。
大事にするからこそ、壊れていくことには、気づかないまま。