江戸はいい日和。 寒い日が続いたけれど、今日は暖かい。青々とした新芽が萌える春。桜の蕾が綻ぶ。 太った鳩が、地面に投げ出した私たちの足元をうろうろしている。別にエサはないのに。 私の隣で沖田は、あの変なアイマスクをして足を組んでいた。こうして二人でベンチに並んで座るなんて、えらく久しぶりのことだ。沖田はしばらく出張であったし、私も私で忙しかった。 もうお互いに子供ではなくなった私たちは、以前のような関係とはどこかが違っていた。あの頃のように泥だらけになって公園を転げ回ることなど、きっと一生出来ないんだろう。チャイナ、とあだ名で呼ばれることも無くなった。 少し寂しく思うが、仕方がない。この世は変わらないものよりも変わっていくものの方がずっと多い。そういう風にできている。そしてこの国の人達は、それを美しいと言う。 「……沖田」 隣で眠る沖田にそっと声をかけた。 「起きてる?」 「あァ」 声は寝起きを装っていたが、アイマスクの下の目はずっと開いていたに違いない。私は口元だけで音を立てずに笑った。 ……こういう、誰かが居る場所では容易に眠れない癖は直っていないのだ。 いつも公務をサボり倒して惰眠を貪っているイメージのある彼だが、ホントは眠ってなんかいないことに気付いたのは随分前だ。眠ったフリしていつも、こっそり人の気色を探っているのだろう。 そうして沖田は、彼の前では弱みを見せなかった姉や近藤の胸の内を窺い、生きてきたのだ。 そう私が指摘したら、沖田は驚いた顔をしていた。きっと誰にも言われたことがなかったんだろう。 「お前、俺と夫婦になる気はねぇか」 沖田が突然呟いた。その台詞が誰に向けられたものなのか、最初は分からなかった。思い出に耽っていた私は微動だに出来ず、瞬きを数回繰り返す。 「……はあ、なんで」 平静を装って、私は聞き返した。 「お前と夫婦になりてぇから」 淡々と言う沖田は、なんの気負いもなさそうだ。こいつ、どうせ本気なわけがない。また私をからかって楽しんでいるのだ。 沖田の真意を測ろうと彼の顔を覗いても、アイマスクに描かれた大きな目玉がどんよりと見つめ返してくるだけだった。 私は無言で頭上に広げた傘を傾けた。お天道様が目を差す。ああ、眩しい。 「それ、冗談なんだろ?」 「はあ、まあ、お前ならそう言うよなァ」 沖田はアイマスクを押し上げた。眩しげに眉をしかめる。その顔のまま、とんでもない爆弾を落としてきた。 「俺は本気なんだけど」 くるっくー、と鳩が鳴く。私たちの目の前を、子供が数人はしゃいで駆けていった。鳩の逃げ惑う様。どこかで犬が吠えた。 「……お前、ついていい嘘といけない嘘があるって、知ってるだろ? 寺子屋で1番に習うんじゃねーアルか」 「俺ァ寺子屋行ったことないから、知らねェ」 「じゃあ今覚えるヨロシ」 実のない会話が続く。それに焦れたのか、沖田はふゥとため息をついて体を起こした。 「なあ、本気なんだけど」 そうして、私に顔を近付けて言うのだ。さっさと答えろ、とその目は語る。そんな無茶な。 私は目を逸らすと、さっと立ち上がった。じっとしていたら、つまらないことを言ってしまいそうだ。 「嘘ネ」 私は沖田に指を突き付けた。もし本当だったら酷いことを言っているなと思った。ただ、相手はあの沖田だ。殊に事態が重要なため、いつもより慎重になってしまう。 もしこれが嘘ならつら過ぎる。だって、沖田のプロポーズを喜んでいる私が確かにいる。 「……嘘って言われてもなァ。証明する術って言ったら……」 沖田は首を傾げた。 「キスしようか」 「要らないアル」 「じゃあセッ……」 「どうしてそうなるんだヨ!」 真顔でそんなことを言える神経が信じられない。近くを通る老夫婦があからさまに私たちを避けた。 「信じらんないアル! やっぱからかってるだろ!」 「本気だって」 「嘘アル!」 私は言い切ると、踵を返した。 「なあ」 「うるさいアル!」 ついに私は逃げ出した。沖田の声を聞きたくなかった。 恥ずかしくて、逃げた。 あの頃の屈託ない仲に戻りたいとさえ思った。 沖田は追い掛けてこなかった。 あれから何の音沙汰もないまま、3日が過ぎた。 歯の奥にものが詰まったようなむず痒さが治らない。落胆もしていた。 やっぱり、本気ではなかったに違いない、返事をしなくて良かった、と思いはじめていた。 そんなある日。 その日は、いつものように万事屋に3人、仕事もなく駄弁っていた。 新八は動いていないと落ち着かないと言って部屋中を歩き回り、今はやらなくても良さそうな家事をやっている。昼間から何もせずに寝転がるという行為が、真面目な新八には我慢ならないらしい。 それとは対照的にソファに寝転がった銀ちゃんは、広げた雑誌を顔の上に乗せてぐーぐー寝ていた。 私といえば、お煎餅をかじりながら昼のワイドショーなんかを見ている。 「新八、お茶ちょうだい」 空になった湯呑みを振って、私は新八を振り返った。 「もう、銀さんも神楽ちゃんも……」 新八は呆れ顔だが、大人しく湯呑みを受け取った。モップをかけた床にお煎餅のカスを零しながら、私は笑う。 「ありがとアル」 そんな私の耳に、アナウンサーの真剣な音声が流れ込んできた。箸にも棒にもかからない三流俳優と有名モデルのスキャンダルを伝えていた時とは、明らかに深刻さが違った。 私はテレビ画面を見た。 『――只今速報が入りました。攘夷志士を名乗る男らが大江戸銀行に押し入り、立て篭もっている模様です。男らは同志の解放を要求しており、爆発物の所持をほのめかしています。急遽武装警察真選組が出動し、現在――』 画面にテロップが流れ、中継映像が映し出された。大勢の野次馬の向こうに、規制線と真選組の制服が見えた。 「あ、これ、土方さんたちも行ってるんだよね」 隣に来た新八が、神妙な顔で言った。私は微かに頷いた。 沖田も当然行くはずだ。なんたって彼は、真選組一番隊隊長なのだから。 「大丈夫、よネ」 無意識のうちに呟いていた。普段の私なら、心配など塵ほどもしないだろう。それは沖田に対する情がないからではなく、彼の技量を知っているからだ。 しかし今日は、なんだか背筋を引っ切り無しに走る痺れのような感覚がしていた。 沖田があんないつもと違うことを言ったからかもしれない。 「大丈夫だよ、神楽ちゃん。なんたってあの人らだしね」 新八の声は明るかった。その言葉の通りになればいいのだけれど――。 その時、中継映像に異変が起きた。 パン、と乾いた音が空気を震わせる。お茶の間に馴染みのない音だったから、一瞬なんだか分からなかった。しかしすぐに思い出した。これは銃声だ。 映像の中で、誰かが叫んでいる。 野次馬のざわめきが大きくなった。 中継をしているリポーターは、呆けたように事件現場の方向とカメラとを交互に見ていたが、ハッとして慌ててマイクを握り直していた。 『銃声です! 現場で何か動きがあった模様です』 パン、パン。続けて2発。 野次馬から悲鳴が波のように広がる。いや、これは悲鳴か? 歓声だ。 規制線を張っているので、直接事件現場は見えない。そのために、野次馬は現実的な恐怖を感じていない。まるで映画の中にいるような感覚だろう。一種のエンターテイメントのようだと、思っているのだろう。 この異様な光景をぼんやり眺めていると、私の胸を何かが突いた。それは予感だったかもしれない。 テレビ越しでも凄まじいと分かる爆発音が鼓膜を叩き、私は目を見開いた。 音と一緒に光が一瞬閃き、規制線の向こうで粉塵がもうもうと舞うのを見た。 リポーターが、咳込みそうな勢いでカメラに叫ぶ。 『爆発がありました! 見えるでしょうか、あの――』 騒ぎを聞きながら、私の脳裏に沖田の顔が過ぎった。数日前の会話も思い出された。 お前、俺と――。 「……新八、私、行くアル」 「え、行くって、神楽ちゃん?」 私は走り出した。 現場に近付くにつれ、人が多くなる。掻き分けて行くのも煩わしい。 私は、屋根の上を駆けていた。騒ぐ人々を足元に、ただひたすら目指す。 屋根の上なら規制線も容易く突破できようと考えたが、途中で警視庁のヘリに見付かりそうになった。仕方なく、地上の路地に一旦飛び降りた。ヘリをやり過ごしてから、再び飛び乗る。こんな時間のロスも酷くもどかしかった。 夜兎の脚力を最大限活用し、常人の倍は速く進む。それでもまだだ。速く、もっと速く。 ただ後悔ばかりしていた。夫婦になろうと言われたとき、それをひどく突っぱねたこと。 変な意地や猜疑に絡められて素直になれなかったことは、大きな罪だ。あのとき沖田は真っ直ぐ私の目を見ていてくれたのに。私は目を逸らしてしまった。 規制線が見えた。その先は煙が上がっている。何台もの救急車や警察車両などが、サイレンを煌めかせながら止まっていた。 担架で運び込まれる誰だかも分からない真選組隊士を見たとき、私は屋根から飛び出した。何の考えもなかった。 私が降り立つと、回りの隊士は目を剥いた。 「あ! 万事屋の――!」 「勝手に入るな!」 「オイ、誰か止めろ!」 私を引き止めようと伸びる数多の手をかい潜る。私は見知った顔を見付けて走った。 あの上背に銜え煙草の苦々しい顔は、副長の土方だ。 「ん? お前は」 「あのドS野郎は!」 私は勢い余って彼の体に体当たりを食らわしながら、叫んだ。よろけた土方は、私の顔をジッと見る。何かを考えているようだ。 「お前、総悟の何……」 しかし結局言うのを止めると、人差し指をスと伸ばした。指した先には負傷した隊士の横たわる担架が幾つも並んでいて、私はゾッとした。沖田は怪我をしたのか。 「奥から3番目だ」 土方が言い終わらないうちに再び走り出した私は、沖田に会うことができた。 足元に散らばったガラスや瓦礫、木片を踏み、地面に直置きされた担架の傍らにしゃがみ込む。 周りの状況だけで爆発の激しさが知れるというもの。 しかし沖田は、一目見た分には思ったより酷い状態ではなかった。 沖田は目を閉じていた。血の気のない頬に、死んでいるのではないかと不安になるが、薄く開いた唇は呼吸をしていた。制服は煤け、破け、所々血が滲む場所もある。でも生きている。 「……この、馬鹿……」 安堵から、大きく息を吐いた。腰が抜けてしまった。私は沖田の顔を覗き込んで、なんだかふと穏やかな気持ちになった。 「心配したアルよ……」 まるでそれが合図だったかのように、沖田の瞳が開いた。 開いた……。開いた……。開いた? 私は固まった。 「お前、それァ……」 沖田は腕を持ち上げると、顔を覆った。頬が赤いんじゃないかと思う。口元は、笑みなのか少し歪んでいた。 「お前……もしかして、起きてた……?」 私は震える声を出した。みっともないけど、私の顔も沖田に負けず劣らず赤いと思う。 「今の……聞いてたアルか……?」 「……」 沈黙する沖田。この場合、沈黙は肯定と同じだ。カッ、と頭に血が昇った。 「なななんで、寝たフリなんか、してる、アル、かぁ!」 言葉の合間に沖田を何度も殴った。もちろん力は弱めてだが、沖田は痛そうに顔を顰めた。 「悪ィ、ちょ、痛、いてぇって! 肋骨折れてんでさ、やめろィ!」 その言葉に、ピタッと動きを止めた。 「ろっこつ……」 「そうでィ」 ふん、と沖田は鼻を鳴らす。 「あの馬鹿共、自分達だけちゃっかり逃げやがって。あいつらごと爆発すりゃー良かったのに」 犯人のことを言っているらしい。人相が警察らしからぬことになっていたが、いちいち指摘はしなかった。それよりも。 「……この間のこと、なんだけど」 ずっと気になっていたことを、私は口にした。勇気を振り絞る、なんてもんじゃない。俯いて、顔真っ赤にして、握った拳を震わせて。でも、すぐにでも言わなければならない。 「お前はほんとにヤな奴アル……からかうし、ドSだし、あんなこと言っといて私に会いにこないし、心配かけるし」 沖田は少しばつの悪そうな顔をした。 でも私は別に、それを責めたいわけじゃない。言葉を続ける。 「お前が……お前が、お前みたいなヤな奴、普通なら一生結婚できないアル。……でも可哀相だから、私がしてやるヨ」 結局、素直になんかなれやしない。 沖田は鳩が豆鉄砲に打たれたような顔をした。それから、純真な子供のような表情をしてみせた。 一瞬後には、普段通りの食えない笑顔になったのだが。 「上等でィ」 ![]() モドル←|→アトガキ |