薄汚れた露地。犯罪者の巣窟。饐えた臭いと、壁の落書きと、建物に切り取られた細長い空から注ぐ申し訳程度の光。おまけに今日は曇り空。
足元のゴミを蹴飛ばして、神楽は鼻を鳴らした。
「くっさいアルな。こんなところ、さっさと終わらせて出てくアル」
日光から身を守る分厚いマントを翻し、神楽は歩き続ける。傘は広げていないが、代わりにゴーグルが顔の半分を覆っていた。
16になった神楽は、父親と同じようにエイリアンハンターを志していた。14に江戸を離れ、父について修業すること2年。今回地球に戻ってきたのは仕事の一環であった。
「レディをこんなところに送り込むなんて、全く信じられないアル」
文句を言いながらも、神楽は任務を投げ出したりはしない。
慎重に進んでいくと、地面に溜まった泥水を踏んで立ち止まった。
前方に、いかにもまともではない男が立ちはだかっていた。
無精髭に、伸びっぱなしの縺れた髪の毛。瞳は落ち窪んで爛々として、その虚ろな様子に薬物でもやっているのではないかと心配になる。
「……何? どいてヨ。私、急いでるアル」
神楽が怯まずに言うと、男は黄ばんだ歯を見せてヒヒ、と笑った。
「いやあね、綺麗なお嬢さんがこんな場所うろついてると危ないよってんで、道案内でもしてやろうと思ってさァ」
ジリ、と神楽に近付いて、男は言った。なめ回すような視線が気持ち悪い。下心を隠しきれない男の様子に、神楽は余裕な笑みを浮かべた。
「ご親切どうも。でも、要らないヨ」
男は、神楽がただのか弱い少女だと思っているらしい。神楽との距離が手を伸ばせば届くほどになると、懐からおもむろに小刀を取り出した。
「ヒヒッ。動くなよ、お嬢ちゃん。大人しくしてれば、殺しやしねぇ――」
男は神楽に飛び掛かった。その一瞬。
神楽の足が、目にも止まらぬ速さで動いた。小刀を払い落とし、跳び上がって男の顎に膝を叩き込むまでが瞬き一回。倒れた男の頭を踏み付け、泥水に顔を擦り付けさせながら、神楽は可愛い笑い声を漏らした。
「喧嘩は、相手を見て売るのネ。……お馬鹿サン」
脳も吹っ飛ぶかという強烈な一撃でとっくに気絶している男に流し目をくれると、神楽は乱れた長い髪を肩から払った。
「雑魚のせいで時間食ったアル」
再び前を見据えた。カッ、カッ、と神楽が歩く度ヒールが鳴る。その音に、別の音が被った。革靴の音だ。背後から聞こえる。神楽は振り返った。
「……何してるアルか。さっきの男のお仲間さん?」
路地の薄闇から解け出るように、漆黒の制服が現れた。革靴がコツ、と音を立てて止まる。
「勘違いするな。……狙うなら、こんな乳臭いガキはやめてもっといい女にするよ」
氷の微笑。真選組帝国カイザー、ソーゴ・ドS・オキタ三世。神楽の慣れ親しんだ呼び名で言うと、沖田総悟がそこに居た。
「言ってくれるアルな。自分もまだ青二才のくせして」
グロスも引いていないのに艶やかな神楽の唇。吐き出す言葉はいつでも挑戦的だ。
「一人でこんなところに来ていいのかヨ? カイザー様ともあろう方が、護衛もつけずに」
今度は沖田が嘲る番だった。
「護衛? そんなもの、要りやしない。……足手まといにしかならない」
高慢ともとれる態度だが、それを諌めることのできる人物はいない。沖田の地位と実力が、誰にもそれを許さない。
「相変わらず唯我独尊なんだな」
神楽はため息をついた。
「帰るヨロシ。私は私のやることがあるネ」
おざなりに手を振る。しかし沖田は帰らなかった。むしろ、神楽に近寄ってきた。
「……さっきの男みたいになりたいアルか」
「まさか」
沖田は肩を竦める。
「ただ、俺にも用があるだけで」
そう言うのと、神楽が傘をさっと上げるのが同時だった。切っ先は沖田の肩越しに、背後の路地を指している。
「足手まといアル。さっさと帰んな。早くしないと、頭吹っ飛ばすヨ」
神楽は傘の柄を握り締めた。どんよりとした嫌な空気が流れて来る。神楽の背筋が強張った。――来る……!
「残念ながら、俺の頭を撃ち抜く時間は無いようだな」
沖田がムカつくことを言い、腰のものを抜いた。そして、くるりと振り返ると、路地の向こうから飛び出してきた刺のある蔓のようなものを次々にぶった切った。





足元で、気味の悪いヌラリとした肉片が痙攣している。切り刻まれてもなお動きを止めないそれを傘の石突で突いて、神楽は顔を歪めた。
「うぇ……気持ち悪いアル……」
刀に付いたねっとりとした青い血を見て、沖田も眉を寄せた。布でいつも以上に丁寧に刃を拭い、パチリと鞘に収める。
「これが今回の仕事か」
沖田が静かに言うと、神楽は頷いた。
「まあな。地球に潜り込んだエイリアンがいるって聞いてヨ。今回の奴はそれほど手強い奴じゃないって言うもんでパピーに任されたアル。けど……」
そこで神楽は忌ま忌ましそうに舌打ちした。
「お前に会うとは思ってなかったアル」
沖田はうっすら笑った。達観した笑みに、神楽の苛立ちは高まるばかり。
「真選組にもエイリアンの情報は入ってきていたものでね」
「私を利用したアルか」
「利用なんてとんでもない」
沖田はおどけた顔をして瞳を丸めた。
「協力し合ったと思えばいい。お互い仕事が片付いて良かったな」
成長してますます食えない男になったらしい沖田。神楽はごみ箱の蓋の上に座り込んだ。相手をするのも疲れた。
エイリアンはもはやぴくりとも動かなくなっていた。代わりに、既に腐敗して臭いが酷い。それを踏んで、沖田は神楽の前までやって来た。
「来るんじゃねえアル。私、帰るから」
神楽はぴょんと立ち上がった。早くシャワーを浴びて、宇宙へ帰ろう。それなのに。
「……何アルか、この手は」
沖田の手が、神楽の腕を掴んだ。
「まあ、待て」
神楽は自分より背の高い沖田を見上げた。曇天の光を背に受け影になった目は、神楽をまっすぐ射る。
「どういつつもりヨ……ッ」
神楽の腕が壁に押し付けられた。沖田をひっぱたこうとしたもう片方の手も見切られて、捕えられた。
「はん……。エイリアンぶっ殺して興奮して、欲情しちまったかヨ。どうしようもないアルな」
神楽は嘲る口調で言った。
「どいてヨ。私、帰るんだから」
拘束を振りほどこうと藻掻く神楽。神楽は夜兎の女だ。こんなことは容易い。あっという間に手は外れたが、次の瞬間、神楽は目を見開いた。
ガツン、と歯と歯が当たるような乱暴な接吻だった。じんとした痛みが唇から広がる。
「ウ、う……!」
心臓が止まるかと思った。それほどの衝撃が神楽を襲った。見開いた目に、沖田の長い睫毛が映った。
硬直した神楽の足を、膝が割る。接吻が深くなり、隙間から舌が入る。
沖田の舌は熱を持っていた。微かに香るのは血と――。
「……! ハ、何するアル!」
神楽は沖田を突き飛ばした。よろめく沖田は反対側の壁に寄り掛かると、口角を上げた。
「乙女の唇を悪ふざけで奪うなんて、最低アルな」
「悪ふざけじゃないさ」
神楽は唇をスッと白い手で拭う。青い目が細められた。
鳥が鳴いている。もうすぐ雨が降るよと。
「笑えない冗談は、ここまでにするアルな」
冷ややかな瞳にも沖田は動じなかった。なぜなら。
「顔が赤い」
沖田に言われて、神楽は咄嗟に手を頬にやった。発火するんじゃないかと思うほど、熱い熱い肌だった。
「……帰るアル!」
ごみ箱に足をかけると、驚くべき跳躍力で神楽は空へ消えた。屋根に飛び乗ったのだろう。まもなく、雨が降り出した。
春雨が沖田の髪を濡らす。雨は路地の嫌な臭いを洗い流したが、熱を冷ましはしなかった。
「……本当に、参るな」





ほとんど音を立てずに屋根を駆け回りながら、神楽は火照った顔を雨に打たせていた。いきなりあんなこと……。
沖田にキスされた瞬間、世界から何もかもが消えた。色も、音も、思考も。沖田が全てで、世界になった。
未だに熱い唇。そっと触れた。
「なんて奴アルか、本当に……」










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