窓から差し込む淡雪のように柔らかな光が、部屋の中を包み込むようにして照らしている。
日に焼けた畳と古めかしい卓袱台だけのその部屋で、一人の女が上品にお茶を口に運んだ。
艶やかな黒髪もほんのり色付いた頬も、輝くように美しい女だった。幸福を体現しているかのような美しさだ。
女は湯呑みを置いた。
「久しぶりね、神楽ちゃん」
独り言のように思えたが、それには返事があった。
「そうネ、姐御」
光の届かない陰になった隅に、少女が座っていた。伸びた前髪の間から精気のない目を覗かせて、壁に丸めた背中を貼付けていた。紙のように白い肌は不健康だ。お妙とはまるで対照的な容貌だった。少女の周りの空気は暗くて湿っぽくて、爛れていた。
「会わないうちに……綺麗になったアルな。姐御は前から綺麗だったけど……」
神楽のひび割れた唇が弧を描く。その笑いは痩せた顔を余計に際立たせた。お妙は思わず目を逸らした。妹分の変わり果てた姿に、動揺を隠せない。
「……」
お妙の仕種に神楽の頬がピリリと引き攣った。神楽は言った。
「結婚したんだってね……おめでとアル」
「……」
それは賛辞ではなく、恨み言に聞こえた。答えることのできないお妙。神楽の声は掠れた風のようだった。
「近藤と結婚したんだって聞いたアル……ストーカー嫌がってたのに。でも、嫌よ嫌よも好きのうちって昔銀ちゃんが言ってたヨ……ほんとアルね、ふふ、ふ」
「神楽ちゃん……」
か細い肩を揺らして笑う神楽だが、笑い声に以前のような快活さは微塵もなかった。お妙は後悔した。今日ここに来たことを、ではなく、こんなに狂ってしまう前に神楽を救えなかったことを。
恋人がいた神楽。結婚の約束をしていた神楽。あの頃の神楽は美しかった。天使のようだった。海色の瞳は世界の全ての色を映して輝いていた。
しかしある日から、恋人は帰ってこなくなった。討ち入りの現場で起きた爆発に巻き込まれて、遺体も見つからなかった。……沖田のことだ。
「うふふ、ふ、ふ、ふ、……」
笑い声が途切れた。神楽の肩の震えが大きくなってゆく。泣いているのだと気付いた。
「……神楽ちゃん」
お妙の手が迷うように動き、結局自分の膝の上に収まった。神楽を抱きしめてやりたかったが、神楽がそれを拒絶していた。
神楽にとって、今のお妙は毒にしかならなかった。幸福で輝くお妙の姿は眩しい。焼かれそうだ。……妬ましい。
机一つだけ挟んで向かい合う二人だが、十海を隔てているような心の差だった。
「夢ならいいのに……夢なら……夢なら……」
神楽は頭を抱えて髪をぐしゃぐしゃにしながら、額を畳に擦り付けた。鼻梁を伝った涙が染み込んだ部分の色を変える。
「夢なら……沖田、沖田……帰ってくる……沖田」
「神楽ちゃん!」
お妙が震えながら立ち上がる。最初はよたよたと、ついには縋り付くように、神楽の丸まった背を抱いた。
「神楽ちゃん、あぁ、お願い……」
振り払おうともがく神楽を一層抱いて、お妙は瀕死の獣のように弱々しく泣く少女の名前を呼び続けた。
「神楽ちゃん、神楽ちゃん……ごめんね……ごめんなさい」
触れてより分かる神楽の細さが哀れだった。
神楽は足を折られた兎であり、翼のない鳥だった。もうどこにもとぶことなど出来ないでいた。
この部屋で一人、骨となり埃となるまで過ごすつもりなのだ。あの人の帰りを待って。
神楽の慟哭を聞きながら、お妙も睫毛の間から雫を垂らした。
神楽を救いたいと思っていた。しかしいざ神楽を前にして、何も出来ない己を呪った。神楽を置いていった沖田も憎たらしい。
誰が悪いわけでもない。それでも誰かを責めずにはいられなかった。この少女は幸福になれたはずだ。
深い悲しみの中で耐え忍ぶ少女を救えるのならば、誰でもいい。






どれだけの時間が経ったのか、すっかり暗くなった窓の外。神楽は身を起こした。
机の上では、お妙が置いていった風呂敷包みが所在無さげにしている。
お妙を追い返したのは神楽だった。体に気をつけて、と渡された包みも開けていなかった。毎日のように訪ねて来る銀時や新八に対する扱いも同じようなものだった。今日のように泣いたりすることは滅多になかったが。
遮断機の降りる音と、電車の走る音が聞こえる。
この部屋は、結婚の約束をした後、沖田と二人で探し出した新居だった。古かったが、神楽にはそれも素晴らしく思えた。なにもかもがそうだった。
今は牢獄のような場所になってしまった。ここに居るのは辛かった。
しかし、沖田が帰ってくるならここしかないと思っていた。
神楽の泣き腫らして半分しか開かない目が、ゆらゆらと揺れていた。新しい涙が溢れてきたのだが、それに気付かずに、痩せた頬に流しっぱなしになる。
「……沖田」
もう癖になってしまった名前をふと呟いた拍子に、チャイムが鳴った。
ピンポーン。
間の抜けた音に、神楽の肩が跳ねた。お妙が戻ってきたのかもと思ったが、望みもあった。
「……沖田……?」
もしそうならば、これほど嬉しいこともない。果たして。
「チャイナ」
久しぶりにその声を聞いた。神楽の唇が馬鹿みたいに震えた。
神楽は立ち上がった。痩せすぎて力もない足だが、今だけは駆けてドアまで向かった。夢中で開けたドアの向こうには、会いたくて堪らなかった人物が立っていた。
「お、おき、た……!」
涙で水分を流し過ぎたのか、喉がカラカラに渇いて、上手く声が出なかった。隊服姿の沖田に縋り付き、ひたすらに求める指で背中を掻き抱いた。
「おかえり、なさい……っ!」
長かった。しかし待つ時間がどれほど長かろうと、神楽はどうでも良かった。今があればいい、この今が!
沖田の指が、神楽の顎を掬った。
指先は涙を拭い、神楽の睫毛に触れ、髪を撫でた。その甘さに陶酔する。目を閉じた神楽の唇に、祝福のキスが降りた。
「ずっと……待ってた……アル……夢みたいヨ……」
記憶の中のどれよりも、今の沖田は素晴らしかった。それだけで酔える酒、そして麻薬だった。
沖田は音もなく微笑み、神楽の耳元に口を寄せた。
「愛してる、神楽」
そして。
「行こうか」
沖田は神楽の手を引いた。
「行く、て、どこに……?」
「お前が寂しくないところに」
引かれるままに、神楽は一歩踏み出した。
しかしすぐに立ち止まった。足元で、黒い影のようなものがうごめいて見えたからだ。
辺りを見回すと、いつのまにか景色も何もなく、真っ暗闇だった。神楽が今まで居た部屋へと通ずるドアが、開け放されたまま闇に浮いているだけだった。
「……沖田……?」
光も透過しない真正の暗闇の中、沖田の輪郭は発光しているかのようにはっきり見えている。人ならざる姿に、神楽は心臓が低い音を立てるのを聞いた。
「沖田?」
「……」
「どうして行くの? 帰る場所はここでしょ……」
沖田の微笑んだ唇が切れ上がってゆく。耳まで裂けたのではないだろうか。神楽にはそう見えた。
「俺はここには帰れないんだ」
ひゅーひゅーとすき間風が漏れるような音が聞こえはじめた。それは沖田の声と共に流れた。
「チャイナにも分かるはずだ……」
そう喋る内にも、どんどん風音は大きくなる。
「爆発の火災に巻き込まれて、体が焼けて、喉まで焼けて」
焦げ臭かった。神楽は目を見開いた。沖田の顔、袖から出る手が爛れ、ドロドロと溶けだしたのだ。
「俺は死んじまった。ごめんな……チャイナ」
唇が無くなり、歯列が剥き出しになった口で沖田は囁いた。
「毎日お前が泣くのを見ていた……お前を一人残していけない……一緒に……」
ずるっと絡み付く沖田の手。神楽は振りほどかなかった。見るも恐ろしい沖田の容貌に怯むこともなかった。
心の中に生まれたのは、充足の感情。安堵の気持ち。
「おきた……嬉しいアル……いっ、しょに……」
神楽の足が再び動き始めた。目からは玉となって涙がこぼれ落ちた。
「幸せアル……。これが……夢なら……一生目覚めたくない……」
「夢じゃない」
神楽は沖田に飛び付いた。その瞬間、二人は闇の中を落ちていた。
抱き合い、どちらともなく唇を合わせた。
神楽の可憐な頬、光を宿す唇。沖田の亜麻色の髪に、蘇芳の輝く瞳。
一番美しく幸せだった時の姿に戻った二人は、愛を込めて微笑んだ。


塗り潰された暗闇の中、開け放されたドアが少しずつ閉じてゆく。ドアの向こうに見える居間の机の上には、風呂敷包みが手付かずのまま置かれていた。ギイイ、と錆び付いた音を立て、やがて閉じた。
黒に包まれ、何も見えなくなった。






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