その日は月が薄雲に見え隠れするような曇り空の夜。 洛中を流れる瀬の水音や清かな虫の声が辺りに澄み渡る静けさ。 それを踏みにじるようにして、騒々しい足音が暗い路地に響いていた。 娘が一人、転げるように走っている。 その娘の後ろから、ごろつきが数人姿を現した。 「あっちだ!」 「逃がすな」 ごろつきは一様に卑しい顔をしていて、碌でもない人間なのだと一目で分かる。 可哀相に、獲物と見定められてしまった娘は必死の思いで救済を求める叫び声を上げていた。 「誰か!」 どんなに叫んでも、答えは返ってこない。 娘の声が聞こえぬはずはないのに、建ち並ぶ家々は沈黙を守っている。 厄介事には関わりたくないということである。 ――たった一人で逃げ切れるだろうか。捕まったら何をされるのだろう。 娘の脳裏を最悪が横切った。 いいことなんかひとつもない。 嫌だ、絶対に嫌だ。 しかし足の速さも体力も、男たちの方が上だ。 背後から荒い息遣いと下品な言葉が迫ってくる。 徐々に距離が近くなり、娘の揺れる袖を汚れた手が掴んだ。引っ張られた小紋がピリリと嫌な感触と共に破れる。 遂に娘は転んだ。その時に、不幸にも足を捩った。 慌ててまた走り出そうとして、鈍い痛みが足首に走る。 痛めてしまったと知った。 わらわらと追い付いてくるごろつき共。 娘の肩に、一人の手が掛かった。 「捕まえた!」 嬉々とした濁声が上がった。 倒れ込んだ娘を起き上がらせようと、肩に指を食い込ませる。 「触らないでよ!」 娘がせめてもの抵抗に男の手に爪を立てた。 「大人しくしてりゃあちゃんと家に帰してやるよ」 「嫌だ!」 耳元で囁かれた声に嫌悪を感じる。悪寒が背筋を這う。 それと同時に娘は肩の手をガッシリと掴んだ。 そして、そのままに勢いよく上体を起こし、男を投げた。 「汚い手で触るな!」 技もなにもない力任せの行為だったが、男の体は見事宙に浮き、一瞬後には地面に叩き付けられていた。 娘の細腕が成し遂げた。 妙な沈黙が辺りを支配する。 「――何をする、このクソ女!」 投げられて息を詰まらせた男が怒鳴った。 それを皮切りに、とくに狂暴な輩が進み出る。 「大人しい顔してとんでもねえ」 「痛い目見せたれ!」 周りがやんやと騒ぎ出し、ニヤけた面がますます調子づいた。 娘は立ち上がろうと足に体重をかける。しかし、ひどい痛め方をしたのか、力がうまく入らない。 「この!」 男の手が振り上げられた。 娘は反射的に、固く目をつむる。 避けられない暴力に、腕で頭を庇って歯を食いしばった。 「何の騒ぎですかね」 俄かに、集団の外から、いやに凪いだ声が聞こえた。 喧騒がピタリと止む。 ごろつき共が一斉にそちらを向いた。 闇に沈む、微かに光る目がそれを見返して、ふっと微笑んだ。 「娘一人に寄って集って、穏やかじゃないな」 座り込んでいる娘からは、男たちが邪魔となって謎の人物がよく見えない。 見えないが、なんとなくただならぬ人だという印象を持った。 何者かが一歩静かに進み出る。ならず者どもと相対する。 自然と空気が張り詰めた。 「何奴!」 野太く男の一人が叫んだ。 「大きな声を出すもんじゃないですよ。夜も更けてんだから」 しかしその人物はまるで揺るがず、全く関係ない答えを返す。 男たちの間にあからさまな怒気が走るのが感じられた。 ふいに、さあ、と風が通る。雲が僅かに晴れ、奇しい月が顔を出した。 現在地の路地にも光が差し込んでくる。何者かの姿も照らし出した。 「……あ?」 だんだら模様の羽織。それが男たちの眼下に晒される。 闇夜に染まる羽織は藍のような暗い色に見えた。 だけど、元の色は浅葱色なのだろう。 この京でその目立つ羽織を着る者が何者かなど、決まっている。 「新撰組……」 男たちが急に怖じけづいた。 娘にもその怯えの混じった声が聞こえていた。 新撰組とは、あの剣客集団のことか。 「新撰組……っ」 「オイ、やばいぞ」 ジリッ、と数歩下がる。それに対し、新撰組の青年は余裕の足取りで間を詰めていく。 「さっきまでの威勢はどうしました? さァ」 青年が刀の柄に手をかけた。鯉口が少し鳴る。 チン、と冷たい音が、娘の背筋まで凍らせるようだった。 男たちはたじろぎ、遂に逃げ出した。 「うわあ」 「逃げろォ!」 娘を放り出し、いなくなる男たち。 なんとも情けない。 壁がバラバラといなくなり、娘の視界が晴れていく。 娘の目の前には、たった一人だけが残った。そこで初めて、娘は青年の顔を見た。 「大丈夫ですか」 綺麗な男の人だった。少女めいたその顔立ちは微笑を浮かべている。 「立てますか?」 青年から差し延べられた手を娘は取った。 「はい……本当に、ありがとうございます」 縋りながら、そっと頭を下げた。大の大人一人を背負い投げた人物とは思えない、か弱い様子で。 青年は娘を安心させるように柔らかく微笑むと、まるで子供を叱るような口調で言った。 「こんな夜更けに出歩いちゃダメですよ。良かったら家まで送りましょう」 青年が屈んだ。娘に背中を向けて。 負ぶされ、と言っているのだ。 「……お願いします」 躊躇うものの再度促され、娘は青年の背に身を預けた。 羽織越しの温かい体温と異性の香りに心中穏やかではない。 「行きましょうか」 青年はゆっくり歩き出した。細いのに、頼もしい背中だった。 静けさを取り戻した夜に、娘の心臓が一つ音を立てた。誰も気付かないほど小さく。 (20120922) return|01 |