シャワシャワと蝉が鳴き、全てを焼き尽くさんばかりに降り注ぐ太陽の光。陽炎が立ち上る地面に水を撒くが、ほんの気休めにしかならない。 風鈴の音に風流を感じる余裕もなく、暑さを耐え忍ぶばかり。 祇園の祭がすぐそこに迫っていることもあって町の様子は活発であったが、町人の顔には僅かな疲れが見て取れた。 慶応二年、六月。 京都は、例年にも増して暑くうだるような夏を迎えていた。 はるよこい この地に、神楽という娘がいた。 年の頃は十六。明るい色の髪と、光の加減で青く見える不思議な色の目を持っている。 料亭『角屋』で働いている女中で、その野の花のような可憐な容姿が客に評判の少女だ。 「神楽ちゃん、これも頼んます」 「はあい」 神楽は今、角屋の台所で洗い物に精を出していた。 新たに汚れた食器をお座敷係りの女中から受け取り、水に浸して擦っていく。 昼時を少し過ぎた時間帯、食器の運ばれてくるペースも緩やかになり、板前たちの忙しさも些か薄れてきた頃だ。 「お座敷のお客はんが、今日は神楽ちゃんはきーひんのかって、残念がってますわ」 女中はそう言って笑った。 客受けのいい神楽を台所の洗い場という裏方に回すのには訳がある。 先日、あることによって、神楽は足首をひどく痛めていた。とても料理の乗った盆を持って歩くことなどできやしない。 そこで、足の怪我が治るまでは、なるべく動かなくても済むような仕事を回してもらっていた。 怪我の理由については、ただ転んだだけだと神楽が伝えた。ごろつきに追い回された揚句の転倒だとは誰も知らない。 本人とあのごろつき共と、神楽を助けた新撰組の青年を除いては。 「ほんとにごめんなさい」 お店に迷惑をかけているという自覚はあった。神楽が申し訳なさに謝れば、とんでもないと返される。 「早う治すんやで」 年配の女中は笑い皺の優しげな目元を細めると、また去っていった。 ここの人はみんな優しい。足の痛みもすぐに癒える気がする。 神楽は温い水に手をつけて、ゴシゴシと食器汚れを落とした。 暑さに際限なく垂れてくる額の汗をしばしば拭う。 ふと目線を上げると、格子窓の向こうにすっきりと晴れ渡る青空が見えた。 「…………」 それを眺めて、すこしぼうっとしてしまった。 鳥が連れ合うように二羽飛んでいく。 神楽はあの時のことを思い出していた。 ……沖田、総悟。 それは青年の名だ。浮かぶのは、春の息吹のような笑顔。 あの時は十分な礼ができなかった。 青年は、現れたときと同じように、やはり風のように去っていってしまったのだ。神楽が教えてもらったのは、名前だけだった。 「沖田、新撰組の沖田……」 その名を耳にしたことがある。 京の町で恐れられる剣客集団、新撰組。その一番隊組長。 虫も殺さぬような顔をして、大層剣に長けた冷酷な人物であると言う。 「……そんな風には見えなかったけどね」 神楽は誰にも聞こえない小さな声で呟いた。 確かに、常人とは異なる雰囲気を持つ男であった。 容姿や体格、見た目のどれを取っても強者には見えないのに、纏う空気がとにかく他を圧倒しているのだ。 あの異質さが人々を敬遠せしめる所以なのだろうか。 しかし彼は、神楽を助けた。他の人間が知らぬ振りをする中で、沖田だけが神楽に救いの手を差し延べた。 あの優しい笑みは心の冷たい人間が持ち得るものじゃない。 もう一目会いたい。 神楽はふと、瞳を伏せた。 あの夜からずっと、胸の真ん中で燻り続ける火種のようなものがある、と感じていた。 それは神楽の意識を常に引き付け、事あるごとに青年の姿を思い起こさせる。 名前だけしか知らぬも同然、しかも新撰組の青年。それなのにどうしてこんなにも心を捕らえて離さないのだろう。 恩人だから、というだけでは済まされない気がした。 神楽はその感覚を気持ち悪いと思う。 初めての感情は神楽を混乱させた。自分の知らない自分がもう一人いるみたいで、胸を開いて見てみたい衝動が沸く。 こんな私はらしくないと悩んでは、ため息をついていた。 (20121003) 序|return|02 |