とある冬の話


 今日は珍しく二人の時間が合ったので、待ち合わせて夕飯を外食で済ませてから帰宅した。季節は冬。昼間は日差しがある分比較的過ごしやすいが、日が落ちた時間はひどく冷える。それは朝以降誰も踏み入れていなかった家も同様であった。
「うわ、冷たっ」
 蛇口のお湯のハンドルを全開に回しても、最初に出るのはもちろん氷のように冷たい水。思わず手を引っ込めれば、背後でため息混じりの声が聞こえた。
「お湯になってから洗えっていつも言ってるでしょ」
「待ってられないんだよね」
「でた、ものぐさ」
 鏡を見れば泉のジト目と合う。目的は手を洗うことなのだから、冷たくても温かくても構わないと思うのだが私だけだろうか。冷水のせいで感覚が鈍くなった手の指の間、爪の間丁寧に洗う。泉は終わるのを行儀よく後ろで待っていて、一緒に洗えば良いのにと言えば、冷水で洗うなんてごめんだと断られた。いつも私に先に手を洗わせるのは、もしかしたら温水になるのを待っているためでは。いや、まさか。優しい優しい私の彼氏様がそんな。背後で呟かれた「そろそろ温かくなったかなぁ」なんて言葉は聞こえなかったことにする。
 最後に泡を洗い流すために今一度流水の中へ手を入れると、少し熱いくらいの温度になっていた。軽く水気をきってタオルで拭っていれば、泉から呼び止められた。
「お風呂の準備しておくから、部屋暖めておいて」
「うん、りょうかーい」
 洗面所を後にしリビングへと向かえば、やはり外と変わらない気温。エアコンのスイッチを入れ、ついでに近くにテレビのリモコンがあったのでそれにも電源をつけた。何か面白い番組がやってないかチェックしたいところだがそれは後回し。なぜなら我が家の帰宅時のミッションはこれだけでは終わらないから。
 部屋の端に置いてある加湿器のタンクに水が入っていることを確認して電源を入れる。そしてその反対方向に足を向ければもう一つ。先程とは形が違うもの、泉曰く性能がそれぞれ違うらしい加湿器。私にはさっぱりだが彼がそう言うならば何か違いがあるのだろう。冬は乾燥する季節、室内では暖房をつけるのだからなおさら湿度が下がってしまう。そのためこの家にはリビングに二つ、ついでに寝室にも一つ加湿器が置いてある。もちろんその全ては美容に気を遣う泉が置いたもの。はじめの頃は室内に二つは流石に…とは思っていたが、事実乾燥肌である私が今日まで潤いを保てているのはこの加湿器のおかげなのかもしれない。一つ言うとするなら、水の補充が面倒くさいことぐらい。
 一通りすべきことを終え、帰宅してから着たままだったコートとマフラーを脱いでハンガーにかけた。しかし脱いで早々に後悔する。まだ冷気で満ちた部屋の中、上着を脱いだら寒くなることは当たり前。エアコンは動き始めたばかりで、暖かな風が出てくるのはまだ先だろう。脱いだばかりのコートを着る気にもならず、エアコンの風が当たりそうな場所にしゃがみこんだ。ちょうどテレビから流れるニュースで、アナウンサーが明朝は今季一番の冷え込みなんて伝えていた。やたら寒いと思ったが気のせいではなかったらしい。今日はもう一枚掛け布団を用意しようかなんて考えていれば、後ろから声がかけられた。
「あんた、なんで縮こまってるの」
「冷気にあたる表面積を減らそうかと思って。あと温風待ち」
「はぁ?」
首だけ振り向けば、泉は上着を脱いでいるところだった。そのままなんとなく見ていれば、私のコートの横に並べて掛けられる。その並べられたダークブルーのロングコートに少し口元が緩んだ。
「なんかにやけてない?」
「……泉は今日もきれいだなと思って」
「当たり前でしょ」
 ふんと鼻を鳴らしながら、照れも謙遜もしない返しは実に泉らしい。私は悟られないようにゆっくりと彼から目線を外してテレビを見るふりをし、再びこっそりとにやける。泉は私の台詞が照れ隠しであることには気付いていないようだった。照れた原因は彼が先程掛けたロングコート。
 あれは澄んだ空気が印象的な、秋も半ばの頃だっただろうか。二人でショッピングに出掛けた時、ショーケースに飾られたコートを一目見て、思わず隣を歩く彼の袖口を掴んだ。ゆったりとした形のシルエット、冬の夜空のような深い濃紺に彼の銀の髪が星のように映えると思ったから。その時はまさか買うことまでは考えていなくて、似合いそうだねと伝えただけだった。しかし気付けば彼の手にはそのブランドのショップバックが握られていた。もちろん彼の好みに合ったからというのが一番であるだろうが、単純に私の声に耳を傾けて選んでくれたことが嬉しかった。おそらくこの冬が終わるまでは、彼がコートを着る度に私の顔のにやけはおさまらないだろう。
 その時、突如として首への湿り気のあるひんやりとした感触に反射的に小さい悲鳴をあげる。
「ひゃっ」
「なにボーッとしてるのぉ?」
 いつの間に背後にまわっていたのか。私の剥き出しだった首に冷えた手を触れさせている泉は、その反応を見てクスクスと笑っていた。抵抗しようと身をよじるが、肩の上から腕を回され拘束される。首に巻き付いた腕とともに、背中にかかる体重に私は眉を寄せた。
「重い……」
「失礼じゃない?寒がりな名前のために暖めてやろうって思ったのに」
「泉も冷たいから暖かくならないんですけど」
 体の冷え具合は二人とも変わらない。私に頬ずりする彼から伝わる温度は少し温もりを感じるけれど、触れる彼の手の冷たさは私の僅かな体温を奪っていく。
「あと少しでお風呂沸くから待ってな」
「先入って良いよ」
「一緒に入れば良いでしょ」
「湯船狭くなる……」
「文句ある?」
 彼の手が再び私の首筋に触れ、先程と同様に声をあげてしまう。地味な攻撃だが、寒がりな私には実に効果的な嫌がらせになっている。
「……泉と入れて嬉しいですよ」
「分かってるねぇ。なら特別に頭洗ってあげる」
「あ、それは普通に嬉しいかも」
「それはって何?俺と入れることが、でしょ」
「はいはい、嬉しい嬉しい」
 せっかく上がった泉の機嫌をわざわざ急降下させる必要はないので適当にかわす。そんな彼は体に巻き付いていた手の片方で私の髪をいじり始めた。
 湯船に浸かりながら彼に頭を洗われるのは好きだ。頭皮をマッサージされているようで、美容室で頭を洗われているときに眠くなる感覚に似ている。違うのは安心しきっているからか、本当に寝てしまいそうになって怒られてしまうこと。でもあの優しい手つきとバスルームに広がる鼻をくすぐる芳香は本当に心地よくて。
「あのシャンプーの香り、良いよね。好き」
「この前俺が買ってきたやつ?」
「そう。けっこう気に入ってる」
 甘すぎるのは鼻につくからダメ、さっぱりしていても朝は良いが寝る前は刺激が強すぎる。だから甘いラベンダーと清涼感のあるシトラスがほどよく混ざり合ったあの香りは好ましい。
「へぇ……俺の好み寄ってきたみたいだねぇ」
「私に合わせてくれたんじゃないの?」
 てっきり私が好きそうだから買ってきてくれたのかと思っていた。それ程までに自分の中でしっくりときていたから。
「そんなわけないでしょ。名前が俺に染まってきたの」
「泉が私に染まってきたのかもしれないよ?」
「厚かましい」
「どっちが」
 冗談めかして言ってみれば、すぐに噛みついてくるあたり負けず嫌いは相変わらず。でも耳元で呟かれるその声色に甘さが含まれているのは分かっている。
 そういえば最近は何にしても気が合うことが増えてきた気がする。泉のコートもシャンプーの香りも。もとから互いの好みが近かったからか、一緒に生活することで似てきたのか。どちらにせよ二人の好みが重なり合っていく感覚はこそばゆいが悪いものではない。きっとそのことに泉も気付いているのだろう。本人は否定しているけれど。
 肌を撫でるエアコンの風は暖かなものへ変わり、私達の周囲はそれに包まれていた。くっついていたおかげか二人の間も人肌程度の温度を取り戻している。狭くなった湯船で文句を言い合う少しだけ先の未来を思い浮かべながら、それまではこの温もりを感じていようと彼へ体を寄せた。
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