境目がなくなるまで


 泉がストレッチをする姿は、よく目にする光景だ。ジムに通っていることもそうだが、体づくりの一貫らしい。柔軟性は怪我を予防するのに効果的と、どっかのスポーツ選手も言っていた。アイドルもモデルも体力勝負な仕事だからこそ、彼はそういったことに余念がない。
 毎日かかさずえらいなと、私はテーブルに肘をつきながら、そんないつもの様子をぼんやり眺めていた。しかし、なんと柔らかい体なことか。昔バレエをやっていたことは知っているが、実際その柔らかさを目にする度に、人の体はそこまで曲げられるものかと、びっくり人間を見た気分になる。まるで軟体動物みたい。なんて言ったら怒られそうだけれど。今だって、180°くらい開いた足をそのままに、上半身をペタリと床につけている。私なんて90°がやっとで、もちろん頭どころか肘もつかない。
 一生懸命ストレッチに取り組んでいる彼に対し、感心しつつ、私は頭の端で少しだけ邪なことを考えていた。原因はスウェットの裾から、ちらちら見えている腹部だ。
「泉の腰って、抱きつきたくなるよね」
 のそりと床に伏せっていた上半身を起こした泉は、いぶかしむような顔で私を見あげた。口こそ開かないものの、何かもの言いたげな様子で。
「どうかした?」
「どうかしたじゃないでしょ……」
 なんの脈絡もなく、おかしなことを言った自覚はあるけれど。そう思ってしまったのだから仕方ない。
 泉のスタイルの良さを強調するような、体のラインに沿った黒いスウェット。ステージ衣装のように華やかな服装はもちろん似合うが、シンプルな服装は彼そのものの美しさをより引き立てていて。加えて家だからか、少し着崩されて隙があるところがまたずるい。だから泉が悪い。私の目をくぎ付けにした彼の腰のせい。
 そんな魅力的な体を有する彼はため息をこぼしながら立ち上がり、私に向かっておもむろに両手を広げた。
「何してるの?」
「あんたが抱きつきたいって言ったんでしょ」
「抱きつきたくなるよねって言っただけで、今抱きつきたいとは言ってないかな」
 私を待ち構えるためであろう、広げた腕を持て余している泉の姿が少し可愛らしくて笑ってしまった。しかしこれが彼の気に障ったのか、むっとした顔をそのままに、無言でズカズカと近づいてくる。本能的に逃げようと私も立ち上がったが、当然彼から逃げられるはずもない。
「いたっ」
 ぐいっと引き寄せられた私の体は、そのままの勢いで泉へと突撃した。彼の胸にあたった頭が地味に痛い。石頭ならぬ石胸。私とは対照的にダメージ一つ受けていない様子がまたむかつく。気付けば彼の腕は私の腰に回されていた。
「どう?」
「どうって言われても」
 私の体は泉の腕の中にすっぽり収まってしまっていた。私の脈絡もないぼやきも大概ではあるが、泉だっていつスイッチが入るか分かったものではない。「なに馬鹿なこといってるのぉ」と流されると思っていたのに。
 仕方なしに私も彼の背中へ手を伸ばした。抱きつくこと、抱きつかれること、抱きしめ合うことは幾度となくしてきたが、改まって感想を求められるとどうにも困る。
「硬い、とか?」
「なに、その感想。他にないのぉ?」
「えぇ……」
 先ほど自ら抱きつきたいと評した腰。思っていた通り細く、私の腕のおさまりが良い。やはり抱きつきたくなると思わせるだけある。しかしそれはただ細いというわけでなく、引き締まっているからで、服越しでも筋肉質であることがうかがえた。自分とは違う、そう感じながら次は背中に手を回してみた。すると、今度は思っていたように腕をおさめられず、背にしがみつくような形になってしまう。彼の腕は簡単に私を抱きしめることができるのに、私にはいっぱいいっぱいで。ああ、でもこの感覚は。
「泉だなーって感じ」
「はあ?」
「私のよく知る瀬名泉さんを再認識してるところ」
「意味分かんないんだけどぉ」
 私の感想はお気に召さなかったらしい。その代わりなのか、今度は泉が私の体をぺたぺたと触り始めた。いやらしさを感じるような触れ方ではないが、確かめるようにじっくりで、なんだか落ち着かない。
「名前は柔らかいよねぇ」
「脂肪がついてるってことですか」
「女の子だからかなぁ。触っていると落ち着く」
「私ってそんなリラックス効果持ってたんだ」
「俺限定だけどねぇ」
「……あっそ」
 恥ずかしげもなく言うものだから、聞き返したら負けな気がした。自分だけ照れるなんて不公平な気分。
「私は、落ち着かないかな」
 目を閉じて、頬と耳を彼の胸に沿わせる。今、自分は泉とゼロ距離にいる。その事実を思えば、自分の中で確実に速度を上げている音の原因が、何なのかはすぐ分かること。
「だってドキドキしちゃう」
 いまだにそう。そこそこ長い付き合いで、一緒に暮らすようにもなって。朝起きた時、家を出る時、寝る時も。理由もなく突然抱きつくこと、抱きつかれることもある。幾度となく繰り返されてきた抱擁たち。けれど回数を重ねれば慣れるなんて、そんなことはなかった。もちろん抱きしめられれば安心することもある。けれど、何度だって泉に触れられれば、安心と同時にドキドキがあって。彼への淡い感情を自覚させられる。
 自分にしては珍しく恥ずかしいことを言ってしまった。今の表情を見られるのが恥ずかしくて、隠すように彼の胸に顔をうずめた。何を言われるだろうか。からかわれるかも。そう身構えていれば、くっついている体から、大きな一呼吸を受け止める。
「そういうの、ずるいんじゃない?」
 一定の速度で伝わっていたはずの、彼の鼓動の刻みが進み始める。
「あれ、泉もドキドキしてきた?」
「誰のせいで……」
「ふふ、いいじゃん。おそろいおそろい」
 文句を口にしながらも、離されることがない腕。とくに理由もなく、部屋のど真ん中で抱きしめ合っているとか、バカップルみたい。振り返れば、そもそも会話がバカップルのそれな気がしてきた。まあ、たまにはいいか。自分と彼の音が合わさり始めるのを感じながら、少しでも隙間を埋められるようにと身を寄せた。
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